
余分な思念の入らない、自然体のモーツァルト。
変ロ長調K.595は、もう40年以上も前の僕の愛聴盤で、当時レコードが擦り切れるほど耳にしたものだ。久しぶりに聴いて、あまりの懐かしさに世界がほんのりと明るくなったくらい。一方のハ長調K.503はほとんど気にも留めることなく聴き過ごしていた演奏なのだけれど、あらためて聴いてみて吃驚するくらい余計な力の入らない、脱力のモーツァルトだった。
純粋無垢なるモーツァルトの音楽を演奏するに余分な思念は要らぬ。
ただひたすらに音符をきれいに音化すれば良し。
とはわかっていてもそう簡単にできないのが人間の性。無心であれ、無我であれと意識すればするほど我に囚われてしまう。そういうモーツァルト自身が無心の境地にあったのかといえば、否。あれほど俗物根性丸出しの輩は古今東西どこを探しても見当たらないかもしれない。
高橋英郎さんがうまいことを書いている。
だが、いかに童心や遊び心が健在であったか。それはモーツァルトの生命力の証しでもある。この年の1月5日に書き上げたピアノ協奏曲K595の終楽章では、1月14日子供の雑誌のために書いた歌《春への憧れ》がピアノで同じように歌われている。
もうなんの当てもなく、春への期待を無心に歌うしかない。
もはや人間たちには訴えてはおらず、神に対してしかありえない嘆き。密林に迷いながら、猛獣にも拾われなかった子供の非難。心ない人類のただ中で、いったいなんのために、誰のためにやってきたのかと心に問うている迷い子の憤り。
フランスの作家、フランソワ・モーリヤックはこの協奏曲を聴いていみじくもこう書き記しているが、もはやモーツァルトは自分自身のためにしか歌っていないのではあるまいか。
~高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P437
その最晩年にまで遊び心に溢れていたモーツァルトの、迫真の、孤独の独白だったのか?
たとえそうだとしてもこれらの音楽には「余分なもの」は何もない。それを、ラローチャは実にうまく表現するのだ。
あまりに美しい変ロ長調K.595に拝跪。
第1楽章アレグロの純白、そして、第2楽章ラルゲットの嘆き。中で、終楽章ロンド(アレグロ)の(モーリヤックのいう)迷い子の憤りよ!
ところで、ラローチャは、スペインはバルセロナの生まれである。
カタラン語はフランス語と国境を接するバルセロナを中心とするカタルーニャ地方の公用語である。バルセロナは今から千年もの昔、バルセロナ伯爵領として栄華をきわめ、独自の政治形態のなかで経済的な主導権を握ってきた。
道路の表示、町の看板など至る所にカタラン語が氾濫しており、巻き舌のリズム感のあるダイナミックなスペイン語の賑やかさはここにはない。シュワシュワと息が抜けるような音の響きが耳にくすぐったいような感じだ。
~中山瞭文・写真「スペイン7つの小さな旅」(東京書籍)P180
スペインの中の異国としてのバルセロナ。なるほど、ラローチャのモーツァルトに通底するのはダイナミックな賑やかさを排除した脱力の響きなんだと納得した次第。