クララはどんなピアノを弾いたのだろう・・・

schumann_sonata2_hewitt.jpg夫婦というのは面白いものだ。それまで赤の他人だった2人が、ある日恋に落ち、ある時から同じ屋根の下で暮らすようになるのだから、悲喜交々、そこには喧嘩もあれば愛の交歓もある。習慣も思考も全く違う2人は、どちらが欠けても番いとして成り立たなくなり、互いに尊い存在だといつのまにか認識する。

19世紀から20世紀前半という時代は男が外に出て、女は家を守るというしきたりが当たり前の、いわば男尊女卑という時代だった。だから、昨日採り上げたロベルト・シューマンが妻のクララに宛てた「関白宣言」のような手紙は、その当時からしてみれば不思議でも何でもないもので、21世紀という今だから、あまりに自己中心的に思える内容にみえるのだとふと思った。

クララ・シューマンの才能がどれだけ夫のそれを上まっていたとしても、ロベルトあってのクララであることは間違いのない事実である。クララの作曲家としての力量がほとんど表に出ることなくもったいないとどんなに思われようと、それはロベルトを夫に持った女性の宿命のようなものであり、逆にそれほどの注目を浴びるのは、大作曲家の妻として、そしてその作品を再現するピアニストとして、生涯献身的に仕えたからだろうと思えるのである。

クララはどんなピアノを弾いたのだろう?
アンジェラ・ヒューイットが録音したロベルトの作品集を聴きながら、これほどまでに歌う、ロマンティックな演奏はあまり聴いたことがない、ひょっとするとクララ・シューマンの再来なのでは、と想像させられた。

シューマン:
・子どもの情景作品15
・ダヴィッド同盟舞曲集作品6
・ピアノ・ソナタ第2番ト短調作品22
アンジェラ・ヒューイット(ピアノ)

何と優しさに満ちた「子どもの情景」か・・・!。詩人ロベルトがまるでその場で子どもに話しかけるかのように再現される音楽は、我々をまさに子どもの頃に誘ってくれる。涙さえこぼれる終曲・・・。そして、作曲者をして「ピアノを弾いていて幸せだった時といえば、これを作曲した時です」と言わしめた「ダヴィッド同盟舞曲集」。第1曲のモットーがクララの作品6の1曲から引用されていること自体、そもそも夫婦が一心同体であることを表す。
さらに、作品22のソナタ。今月下旬に開催される「作曲家の恋物語」で愛知とし子が弾くことになっているこの音楽は、ロベルトが結婚前のクララに恋い焦がれ、まさに求愛しようとするちょうどその頃に創造されたもの。時は1835年10月。深まる愛を綴る最初の手紙が書かれたのが10月20日、そして11月25日にヴィーク家の階段で初めてのキスを交わしたのだと。そんな情景を想像しながらこの音楽を聴くだけでもう鳥肌が立つ。

※最近リリースされた内田光子女史の「ダヴィッド同盟舞曲集」他は未聴。ぜひとも比較試聴してみたいものだ。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ここ数日のコメント欄でのやり取りから推論し、もし私がロベルト・シューマン、クララ、ブラームスを題材にした映画の脚本を書くとしたら、こんなアプローチにします。
①文学青年でもあったロベルトの才能をいち早く認め、天才少女クララに音楽等を教えるためにヴィーク家への寄宿を許したにもかかわらず、ロベルトとクララの心がひとつになるや否や、二人の婚約に猛反対し、ロベルトを非難し続け、別な男を接近させる作戦など、徹底的に結婚妨害作戦に出、結婚後も3年くらいはロベルトの悪口を言いふらし続けた、クララの父フリードリヒは、じつは本音ではクララを主婦として型にはめて家庭に閉じ込めておきたかったロベルトと性格的には似たタイプ。
ファザコンでもあったクララは、無意識のうちに自分とは正反対だが父に似た性格のロベルトに惹かれていった。
一方、父フリードリヒがロベルトを嫌ったのは、似た者同士の、一種の近親憎悪みたいなもの(だから、後に和解もした)。
②本質的にファザコンだったクララと、マザコンのブラームスも、似たもの同士。「LOVEは異質なものを求め、LIKEは同質なものを求める心の作用」という論法
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/post-570/index.php#comment-3935
でいえば、二人は「LIKE」(同好会)から、さらに積極的な「LOVE」(結婚)に発展させることは出来なかった(肉体関係があったかどうかは別にして・・・)。ここが、グスタフ・マーラーの妻、アルマ&若き美青年・恋人グロピウスの二人とは大きく異なる点(アルマとグロピウスは後に結婚し離婚した)。
http://www.geocities.jp/takahashi_mormann/Articles/almamahler
私は、クララより奔放に生きた、アルマの人生のほうに何倍も惹かれますが・・・、多くの現代女性にとってもそうじゃないかな(笑)。
クララが弾くピアノ、聴いてみたかったですね。そこには、彼女の、夫にもブラームスにも決して明かさなかった、秘めた本音が聴けたのかも・・・(微笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
事実は雅之さんのお書きになった脚本通りだろうと僕も推測します。
フリードリヒ・ヴィークはロベルトと性格は似てるんでしょうね。ただ、娘を一介の主婦にはどうしてもさせたくなかった。それはベートーヴェンの飲んだくれの父親が息子を金蔓と考えていたのと同じように、娘をお金を生む金の卵だと考えていたから。要求するスタンスは違いますが、ロベルトもフリードリヒも自身の意思に対しての強固な姿勢は他を圧倒するものがあったのだと思います。そういう執着こそが素晴らしい作品を生み出す原動力になっているのですが、一方で精神に異常を来す原因にもなった。そんな関係の中にヨハネスが正面から入っていく余地はなかったかもしれません。
それにしてもアルマの奔放な生き方は現代の女性の鑑でしょうね。アルマの人生は興味深いですが、僕は当事者にはなりたくないですね・・・。怖いです(笑)。
>そこには、彼女の、夫にもブラームスにも決して明かさなかった、秘めた本音が聴けたのかも
同感です。

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雅之

>僕は当事者にはなりたくないですね・・・。怖いです
そりゃ作曲家の壮絶な人生なんて、当事者には誰だってなりたくないですよ。私だって、なってもいいのは、せいぜい常識が通じる、ドヴォルザークかシベリウスくらいまでです(笑)。
しかし、傍観者の立場としては、カッコよく天晴れな人生は、クララより圧倒的にアルマでしょう。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラなんて問題にならないくらい・・・。
ところで、今から、井上道義&名フィルのショスタコ『レニングラード』他を聴きに行きます。
https://www.nagoya-phil.or.jp/concerts/2010/c_374.html
・・・・・・ナチス・ドイツに包囲されたレニングラード市内で書いた抵抗の音楽。「この男、危険につき」のマエストロの怒りが全面的に爆発するはずだ。・・・・・・
そう、男も女も危険じゃなきゃ!
芸術は爆発だ!!
危険を恐れたらダメ。

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岡本 浩和

>雅之様
>傍観者の立場としては、カッコよく天晴れな人生は、クララより圧倒的にアルマでしょう
おっしゃる通りです。あくまで傍観者、ですね(笑)。
>井上道義&名フィルのショスタコ『レニングラード』他を聴きに行きます。
羨ましいです!雅之さんの人生を変えた(?)日比谷でのショスタコ・ツィクルスを彷彿とさせるものになるのでしょうか?!
>そう、男も女も危険じゃなきゃ!
>芸術は爆発だ!!
>危険を恐れたらダメ。
ごもっとも!

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