ドビュッシーの天才

少々酔っ払った。
横になっておそらく十数分。
ようやく落ち着いたのでブログでも書こうとPCのスイッチを入れ、まずはメールを確認しようとしたところ開かず。他のサイトは問題ないのに自分のブログやホームページも同様。
「サーバーにアクセスできません」という表示が出るので、曲りなりのIT知識を導入して試行錯誤するも復旧せず。揚句はPCそのものを復元したがやっぱり無理。いや、困った。
結局1時間以上格闘し、ようやくプロバイダーに問題があるのではなかろうかと推測し、Pocket Wifiで接続したところつながった。続きにBフレッツのサイトで故障状況を確認したら、何とか情報がキャッチできた。
インターネットの世界は目に見えないからこういう時に困惑する。見よう見まねでこれでも10数年パソコンを触ってきたから何とか対処はできたけれど、根本的に理解していないところもあるから怖い。
そう考えると、何とITに依存していることかと恐ろしくなった。メールも確認できなければホームページやブログも更新できないことがいかに大変なことか・・・。アナログ的に生活することをどこかで望むものの今更それは無理というものか・・・。

結局翌日にまたいでこの記事を書いている。
気晴らしにドビュッシーを聴きながら。それもギュンター・ヴァントが超一流になる(?)少し前の録音で(カップリングの「展覧会」は晩年のもの)。

ドビュッシー:交響的断章「聖セバスティアンの殉教」(1982.9Live)
ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)(1999.2.21-23Live)
ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団

今更ながらドビュッシーの天才に度肝を抜かれる。
昨日のリサイタルでも感じたことだが、彼も若き頃にワーグナーの薫陶を受け、結果的に独自の路線を発見し、当時の聴衆からどれだけ理解されていたかはわからないけれど、20世紀の後の音楽シーンにまで多大な影響を与えたことを考えると、ドビュッシーも音楽史上唯一無二の存在であることを確信する。
そのことは晩年の劇音楽「聖セバスティアンの殉教」を聴いても明らか。残念ながら、僕は全曲版を知らない。デュトワによる名演奏でこの音楽について初めて知り、そしてこのヴァント盤でより深く知らしめられた(ただし、いずれも抜粋=交響的断章によるのだけれど)。

1910年代のパリで起こったバレエにまつわる出来事は非常に興味深い。
「聖セバスティアンの殉教」も装置・衣装がレオン・バクスト、振付がミハイル・フォーキンという「火の鳥」同様の布陣ゆえ一層面白い(主役はあの「ボレロ」の初演を行ったイダ・ルビンシテイン!)。それに、上演時間が5時間以上ということ、主役がユダヤ人だったこと、異教的な色彩が用いられたことでパリの大司教の怒りを買い、上演に先立ってカトリック教徒の観覧が禁じられたそうだから、その混乱ぶりと言ったらば、途轍もないものだったことが想像できる。何よりひとつの舞台が宗教まで巻き込んで物議を醸すこと自体が今の我々の感覚からは程遠いものだから、わずか100年前のイベントにもかかわらず、何と刺激的な(?!)時代だったのだろうと羨ましくなる。
これもアナログ的時代だった故の事件なんだろう。
現代だったら周辺はもう少し冷めているのではないか。
そんなことを思っているうち、音楽は「展覧会」になった・・・。

さて、明朝は稽古。起きられるかな(汗)。

3 COMMENTS

雅之

おはようございます。

あれ、ヴァントのこのCD、持っていないと以前おっしゃっていませんでしたっけ?(たしか『展覧会の絵』の話題でコメントした時)

>これもアナログ的時代だった故の事件なんだろう。
>現代だったら周辺はもう少し冷めているのではないか。

レコ芸の7月号が吉田秀和さんの追悼特集を組んでいたので、買いました。
吉田さんの遺稿、ハイフェッツについて書かれた「之を楽しむ者に如かず」には心の底から感銘を受けました。特に最後のページ(レコ芸7月号 64ページ)には、万感の思いが込められているように感じ、吉田さんの新しい音楽評論がもう読めない寂しさを禁じ得ませんでした。

青柳いづみこさんによる的を得た優れた追悼文にも、強く深く共感しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「引き裂かれた演奏家」に共感
 〜「不可能事」を生きる中で  青柳いづみこ
(後半部分より レコ芸7月号 69ページ)

・・・・・・矛盾を否定しない吉田さんは、相反する価値観に引き裂かれる演奏家により深いものを感じるようだ。健康的すぎるギレリス、「スキラ社の複製画」(!)のように極彩色のアシュケナージより、線的なのに叙情的なグールド、奇矯なのに自然でオーソドックスなグルダ、豊麗華麗なヴィルトゥオーゾなのに、内向的で傷つきやすいリヒテルにひかれる。矛盾の最たるはミケランジェリだ。吉田さんのとらえるミケランジェリの演奏は、「その時、その場所でなければ起こらないような、啓示」であり、「きくものをインスパイアする芸術」なのだが、そのことは、彼がとてつもない完璧主義者で、芸術的にも技術的にもこれ以上ない究極のところまで演奏を練り上げる態度と奇妙にくいちがう。

「ミケランジェーリという芸術家は、その矛盾の間にいて、生き、仕事をする。いや、仕事をする、つまり演奏するということは、彼にはその矛盾するものを両立さすという不可能事を生きるということにほかならないのであって、そのどちらかの一方が欠けていてもだめなのだ」(『世界のピアニスト』)

 吉田さんの巨大なデバイスの項目をひとつひとつクリックするにつれ、私たちは吉田さんもまたこの不可能事を生きた人だということを知る。

 演奏はあとからあとからすぎ去る。のみならず、同じ演奏家でも二度と同じようには弾かない。録音とライヴではまるで演奏が変わってしまうこともしばしばある。

 聴き手もまた耳を変える。年齢によって経験によって「時計の針が逆に動き出したかのような」時代の流れによって。吉田さんも、久しぶりにギーゼリングを聴いて拍子抜けしたことを告白している。技術も日進月歩だ。1950年代の「卓越した技巧」は2000年のそれと同じではない。演奏論のむずかしさは、時空を超えてカール・ルイスとウサイン・ボルトを走らせなければならないところにある。おまけに、演奏はスポーツではない。

 そんななか、相撲と同じような真剣勝負でその場で起きていることを聞き取ろうとし、その演奏の過去と未来を見ようとし、それらを演奏世界と芸術世界に位置づけし、自らの美学的地図の上にも位置づけた上で、これ以上ないという究極の言語表現に昇華させる。
 
 吉田さんは四分の三世紀にもわたる評論家生活で、稀にみる厳しい一刻一刻を生きてきたのだ。98歳まで横綱を張った吉田さんに、心からの拍手を贈りたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あっち行ったりこっち行ったり、軸がぶれまくることを楽しんでいるにもかかわらず軸がぶれてはいかんと唱え、アンバランスなくせにバランスを重んじるといい、信仰や宗教の知識はカケラもなくいい加減で自分勝手なくせに神を信じていると告白し・・・、矛盾に満ちた岡本さんのブログに私が何故惹かれるのか、今やっとわかりました。 岡本さんもまた、「不可能事を生きる、引き裂かれた音楽愛好家」であり、それは吉田さんが追い続けた魅力的な演奏家の本質にも繋がるのです。    

今後も余程の事がない限り買わないであろうレコ芸の、今月号を読み触発され聴いた2枚(特に後のCDは超カッコよく、吉松『タルカス』以来の強力なお薦めです)。

ドビュッシー:前奏曲集第1巻、『映像』第1集&第2集 ミケランジェリ(p)
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1755940

『21世紀の精神正常者たち』 モルゴーア・クァルテット
http://www.hmv.co.jp/product/detail/5030406

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雅之

青柳さんの引用文中「ギーゼリング」は私の単純なミスタッチであり、申すまでもなく正しくは「ギーゼキング」です。お詫びします。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
実は昨晩から自社サイトおよびブログのサーバーにアクセスできない状態が続いておりました。
昨日のこの記事は一瞬、偶然にアップできたもので、閲覧できない方がたくさんいらっしゃいます。
実は僕もようやく今たまたまつながりました。
原因はわかっております。私の完全な不手際なのですが・・・。
で、おそらくしばらくブログの更新は不可能になります(このコメントも見ていただけるかどうかわかりませんが)。

ところで、レコ芸7月号、ようやく僕も本日買いました。まだちゃんとは読めておりませんが、吉田さんのこと青柳さんの文章等興味深いですね。
しかしながら、「不可能事を生きる、引き裂かれた音楽愛好家」とはほめていただいたのか貶されたのかわかりませんが(笑)、素直にありがとうございますとお礼を申し上げさせていただきます。
ところで、最後にあげられているモルゴーア・カルテットのコンサートが27日にあります。もちろん僕は行きます。(感想をブログにアップできるかどうかは今の時点では何とも言えませんが)

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