トスカニーニのベートーヴェン交響曲第7番&第8番(1951.11Live)を聴いて思ふ

beethoven_7_8_toscanini_1951065音圧高い勢い溢れる灼熱の第7交響曲。
残響のない乾いた音響がその特長に一層輪をかけるが、たとえ色気のない録音であったとしても、これほどに激烈なベートーヴェンは他にない。おそらくその日その場所(カーネギーホール)で体感していたならば失禁していたのではないかと思わせる「直情的でありながらかくも冷静な音楽」がここに在る。

フルトヴェングラーはいみじくもトスカニーニの音楽を評して「トスカニーニは、彼も言うように、できるだけ楽譜に忠実に規律正しく―威圧的にでも理性的にでもなく―演奏しているつもりだが、それは自己自身とオーケストラに関してだけである。」(「ドイツにおけるトスカニーニ」1930年)とした。いやはやトスカニーニのベートーヴェンは、単に楽譜至上主義ということでなく、実に威圧的でもあり理性的でもある。そして、フルトヴェングラーにおいては二卵性双生児のように聴こえた第7交響曲と第8交響曲がまるで対の、一卵性の双生児のように思えるのは不思議なことだ。

ダンテ・アリギエーリが見た地獄と天国の描写がそのままトスカニーニのベートーヴェンに通じる。

「神曲・地獄篇」をひもとく。

心に神を無みし神を誹り、また自然と神の恩恵(めぐみ)をかろんずるは、これ人神にむかひてその力を用ふるものなり
この故に最小の圓はその印をもってソッドマ、カオルサ、また心より神を軽んじかつ口にする者を封ず
山川丙三郎訳「神曲(上)地獄」(岩波文庫)第11曲P71-72

彼我に曰ふ、哲理はこれを究むる者に自然が神の智とその技よりいづるを處々に示せり
汝また善く汝の理学を閲(けみ)せば、いまだ幾葉ならざるに汝等の技のつとめて
自然に従ふこと弟子のその師における如く、汝等の技は神の孫なりともいひうべきを見ん
~同上書第11曲P73-74

これこそトスカニーニの楽聖第7交響曲。哲理を究め、そして自らの理学を閲する者の音楽には作為のない自然(神)が宿る。
続いて第8交響曲。ほぼ同じテンションで炸裂するこの曲が、今まさにこの場で生まれたかのよう。

ベートーヴェン:
・交響曲第7番イ長調作品92(1951.11.9&10録音)
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1952.11.10録音)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団

今度は「神曲・天国篇」をひもとく。第33曲(最終曲)最終シーン。

反映(てりかえ)す光のごとく汝の生むとみえし輪は、わが目しばしこれをまもりゐたるとき
同じ色にて、その内に、人の像(かたち)を描き出しゝさまなりければ、わが視る力をわれすべてこれに注げり
あたかも力を盡して圓を量らんとつとめつゝなほ己が要(もと)むる原理に思ひいたらざる幾何学者の如く
我はかの異像を見、かの像(かたち)のいかにして圓と合へるや、いかにしてかしこにその處を得しやを知らんとせしかど
わが翼これにふさはしからざりしにこの時一の光わが心を射てその願ひを満たしき
さてわが高き想像はこゝにいたりて力を缺きたり、されどわが願ひと思ひとは宛然(さながら)一様に動く輪の如く、はや愛に廻らさる
日やそのほかのすべての星を動かす愛に。
山川丙三郎訳「神曲(下)天堂」(岩波文庫)P211-212

ベートーヴェンの終着点はすでに交響曲第8番にあったのではないかと、トスカニーニを聴いて思った。ここには光があり、「すべての星を動かす愛」が満ち満ちる。

ともすると独裁者的厳格さと、その表現の即物的冷徹さばかりが取り沙汰されるトスカニーニだが、この人の内側には一途で真に柔和で優しい側面があったように僕は想像する。

演奏会はとても美しく、熱狂的でもあった。(中略)オーケストラは素晴らしい演奏をした。君もこのオーケストラがどんなに高貴な音を出すか聴くべきだ。このオーケストラは、本当に最も高い水準の楽団員によって構成されている。イタリアでは決してこれほどのオーケストラを編成することは出来なかった。最悪だ。君が演奏会に来られなかったのは本当に最悪だ、僕のアーダ。でも僕は指揮をしながら君のことを考えていた。どの拍にも、僕の頭の中で、君は存在していた。
(愛人のアーダ・マイナルディ宛手紙)
山田治生著「トスカニーニ大指揮者の生涯とその時代」(アルファベータ)P227

天使と悪魔が共存する何と素晴らしい第7交響曲、そして第8交響曲。
フルトヴェングラーのベートーヴェン解釈が、「ファウスト」の如く暗喩的であるのに対し、トスカニーニのそれは「神曲」の如く直喩的であると言えまいか。

 

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3 COMMENTS

畑山千恵子

トスカニーニはカラヤンが模範としていました。カラヤンは、音楽そのものから捉えるべきだと感じ取っていたかもしれませんね。だから、トスカニーニを模範として、音楽を音楽として捉えることが大切だと悟ったかもしれませんね。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
とはいえ、カラヤンの音楽はトスカニーニとは似ても似つかない代物であったと思います。
善かれ悪しかれですが・・・。

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