
1832年、フェリックス・メンデルスゾーンはロンドンのフィルハーモニー協会から交響曲、序曲、声楽曲の作曲依頼を受け、これを機会に書きかけだった「イタリア交響曲」を完成させた。交響曲は翌年5月13日にロンドンで初演され、成功を収めたといわれる。
しかし、その出来に決して満足しなかったメンデルスゾーンは作品の改訂を進めるものの、満足に至らず結局生前に出版されることはなかった(神童と呼ばれたメンデルスゾーンが一切の努力なく、天から楽想を得て一念で作曲しているのではないことがこういうエピソードからも理解できる)。
イタリア滞在中—それが題名の明白な由来である—の1830年から腹案を練っていたこの作品は、傑出した管弦楽法の透明さが際立ち、明瞭さと明るさによって、メンデルスゾーンの全作品のなかでも明らかに抜きんでている。
~レミ・ジャコブ著/作田清訳「メンデルスゾーン」(作品社)P121
メンデルスゾーン自身は霊感の源については語っていないので、イタリア旅行の何がどのように彼をインスパイアしたのは正確にはわからない。しかし、純粋に音楽作品としてその清々しくも明朗な音調は真夏の暑気払いに実に相応しい。
興味深いのは、レミ・ジャコブが「イタリア交響曲」からワーグナーが多大な影響を受けているのではないかと推量している点だ(例えば第2楽章アンダンテ・コン・モート中間部におけるフルートの高音域で主題を調和させ書法をきらめかせる箇所からワーグナーが「ローエングリン」第1幕前奏曲の楽想を得たのではないかと彼は推測する)。
現在では、改訂前の原典版で演奏されることが一般的だが、ガーディナーは、ご丁寧にも1833年から34年にかけて改訂した譜面(第1楽章は改訂に至らず第2楽章から第4楽章)に拠った演奏をおまけで収録している。
音楽を聴いて率直に感じるのは、オリジナルが純粋に天からの恩恵を形にしたものであるとするなら改訂稿は、思考をこねくり回し、余分なものが付加された作り物の印象が否めないことだ。それはブルックナーの場合と同じで、第一念から第二念、第三念と、意思を重ねるごとに、作品は本来の姿(最初の姿?)から残念ながら遠のいてしまう(ということに等しい)。完璧を期す作曲家にして、納得いかない場合の改訂作業というのは当然の仕事なのだろうが、最初に降りたインスピレーションこそ文字通り天啓であり、可能ならその音楽をそのまま聴きたいと僕などは思う。それにしても第2楽章アンダンテ・コン・モートの美しさ。あるいは、牧歌的な第3楽章メヌエットの安寧(テンポ記号は原典版がコン・モート・モデラートに対して改訂版はコン・モート・グラツィオーソというように単に速度を表す指示から内面の感情を喚起する指示に変更されていることが興味深い)。続く終楽章サルタレッロ(同じく原典版がプレストに対して改訂版はアレグロ・ディ・モルトというように感情表記に変更されている)の急進的で颯爽とした響きに心が躍る。
ちなみに、1937年11月発表の「リヒャルト・ワーグナーと『ニーベルングの指環』の中で、トーマス・マンは次のように書いている。
老巨匠はフェリックス・メンデルスゾーンに驚嘆している。彼を「思慮深い中庸を得た繊細な芸術的センスの例証」と呼んでいる。これは特にとりたててメンデルスゾーンその人にふさわしいとは思われない賞賛の言葉ではあるが、客観的で非利己的な驚嘆である。
~トーマス・マン/小塚敏夫訳「ワーグナーと現代」(第2版)(みすず書房)P157
マンにも理解しがたいワーグナーのメンデルスゾーンへの讃美。やはり彼は真実を見通す力に長けていたのだろうか。