リュビーモフ トロッター カポーラ アシュケナージ指揮ベルリン・ドイツ響 スクリャービン 神秘劇序幕(ネムティン補筆完成版)ほか(1996.9-1997.8録音)

神秘主義に傾いた後期のものも含めてスクリャービンの音楽には抵抗はないはずなのだけれど、これには少々参った。残念ながらインスピレーションに乏しく、単に冗長で、まったく心が動かないのである。僕は久しぶりにレオニード・サバネーエフによる「創作秘話」をひもといた。

これは事実、単なる音楽であってはいけないと、あなたも感じておられるでしょう。私は神秘的な前奏曲の演奏を考えています。皆が神秘を経験する、内輪の仲間での演奏です。これは神秘劇への準備になる。私は昔、自分の中に人類の体験を喚起できると、トルストフスキー小路で話しました。その時は音楽なしでもできると考えた。ですが今ではこのことで、私の役割、芸術の機能的役割があると思います。芸術なしではこれは極めて難しい。だが音楽だと、この雰囲気が流れ出る。大変容易で、自然に行われます。こうした前奏曲数曲で我々は神秘劇前夜に達し、これは本当に大きな事を意味します。でも私一人ではだめで、共にこれを体験する人びとが必要です。でなくては、どんな神秘劇もあり得ない。音楽の助けを借り、集団的な創作を実現する必要がある。これはすべてを凌駕する創作です。
レオニード・サバネーエフ著/森松皓子訳「スクリャービン―晩年に明かされた創作秘話」(音楽之友社)P242

スクリャービンの言葉はほとんど妄想に近いもののように思えるが、この作品が実際に陽の目を見たならどんな芸術作品になっていたのだろうかとずっと僕は気になっていた。ただし、ほとんどカルト集団を喚起するかの如く、作曲者は集団での歓喜を企図した点が何だか脆い。時は第一次世界大戦勃発の頃。

戦争は、真の神秘感覚、恍惚的認識の源、変容と恍惚への道となり得る。神秘主義者は戦争を歓迎すべきだ。この永遠に単調な小市民の生活を、別の充実した感覚に変化させねば。その時初めて我々は神秘劇の認識と、その必要性を知ることができる。
~同上書P246

戦争を讃美する異様な感覚に背筋が凍る。
実際、序幕のスケッチを始めた頃、スクリャービンは次のように語っていることが興味深い。

序幕は寺院ではなく、特別のホールで行われます。ロンドンで上演したい、お金も集まるでしょうから。既に全てがロンドンに順応するよう考えています。下り階段が全体についた円形劇場が欲しい。その中央に祭壇があり、周りの全ては階級的な序列で、物判りの悪い人たちまで順次下る。全てが限界までシンプルでなければ。最悪の場合には、単純なホールで満足するかもしれませんが、ただこれに全てを順応させる必要が生じます。
~同上書P250

妄想的でありながら実は現実的。夢と現を行き来するスクリャービンの思考に果たして着いていけるのかいけないのか。結果的に、神秘劇の作曲は遅々として進まず、完成されることはなかったが、作曲者は当時謎めいた言葉を残している。

神秘劇の期限は、全体的な条件から判明します。神秘劇自体が成熟しなければなりませんから。今は戦争でしょう。これは前進が始まった予兆の一つです。だが事の成り行きはわからず、物質性はまだ強くありません。我々は中央まで、下方まで、精神の完全な物質化に至っていない、これは今後のことです。ですが神秘劇は、既に曲線として完成と向上を意味しています。だって私が神秘的を創造するのではなく、神秘劇が存在しなければならない、神秘劇は存在するだろうと知っているだけなので、私はそれを知らせ、それに協力しています。序幕は促進の一形式で、この音楽作品によって世界で何かが生じ、神秘劇を近づけます。
~同上書P257

なるほど神秘劇は、自身が自らの意志によって作曲するものではなく、天からいわば自動的に(?)与えられるものだと彼は言うのである。それならば、ネムティンによって補筆完成された作品に感化されない理由もよくわかる。あくまでスクリャービンが自身を媒介にして天の声を記譜しなければならなかった代物こそ神秘劇だということなのだから。

アレクサンドル・スクリャービン/アレクサンドル・ネムティン補筆完成
・ニュアンス(1996.9録音)
・神秘劇序幕
第1部:宇宙(1997.5録音)
第2部:人類(1997.8録音)
第3部:変容(1996.9録音)
アレクセイ・リュビーモフ(ピアノ)
アレクサンドル・ギンジン(ピアノ)
トーマス・トロッター(オルガン)
アンナ=クリスティーナ・カポーラ(ソプラノ)
エルンスト・ゼンフ合唱団(ジーグルド・ブラウンス指揮)
サンクトペテルブルク室内合唱団(アレクサンドル・カツィミーロフ指揮)
ウラディーミル・アシュケナージ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団

神秘劇にまつわる以下の構想をかつて読んでいた僕は待ちに待った再リリースの報に心が躍った。

生涯の最後の年、スクリャービンは諸芸術を統合し、人間を神のレベルにまで高めようとの望みから大作「神秘」に挑んだ。それは彼の代表作になるはずであった。作曲家は二千人の出演者が幻想的に入り乱れ、神秘劇、音楽、舞踊、演説をくり広げるプランに取り組み始めた。それは音楽というより儀式であり、そこにいるのは出演者だけで観客はいない。音や色彩とともに香水の使用までがスコアに書きこまれており、多面的感覚のポリフォニーの様相を呈していた。舞台はチベットに始まりイングランドで終わることになっていた。「神秘」は舞台にかけられることがなかった、いやスクリャービンでさえ書き終えられなかったのである。
(ロシア文化史研究者ジェームス・H・ビリントン)
藤野幸雄「モスクワの憂鬱—スクリャービンとラフマニノフ」(彩流社)P203

神秘とは実際それほど神秘的なものではないのだろうと僕は思う。天と人とが一つになるのは、もっと謙虚で、もっと日常的な(?)何でもない事象の中に存在するものなのだろうと思うのである。その意味で、スクリャービンは高邁であり、そこには無理があった。彼が完成に至らなかったのはそれゆえだろうことは、今の僕なら十分理解できる。それにしても手に入れてから幾度も聴き込んでいるが、一向に心に響かない。

期待が大きかった分、幻滅も大きい。残念ながら僕にとって(あくまで私見だが)「独活の大木」のようにしか思えない作品だ。

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