クレーメル マイスキー バーンスタイン指揮ウィーン・フィル ブラームス ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲ほか(1982.9Live)

私には、チェロとヴァイオリンを独奏楽器としてまとめるのは、必ずしもいいことだとは思えない。そして、楽器が色彩的でないから、協奏曲が将来性をもつとは信じられない。これは、作曲する人にとってはきわめて興味ある作品だろうが、彼の他の多くの作品におけるほどにはこの曲には新鮮な温和な筆致がない。
(クララ・シューマンの日記)
「作曲家別名曲解説ライブラリー7 ブラームス」(音楽之友社)P152

クララ・シューマンは、初演からしばらく後、この協奏曲に未来はないと否定的な見解を呈していたが、百数十年を経過した今、作品がどれほど人々に愛されているかを考えると、音楽が色彩云々よりもコミュニケーションであり、内なるパッション、誠実なる熱量が人気の鍵を握るのだということがわかる。ギドン・クレーメルがミッシャ・マイスキーと録音した二重協奏曲が素晴らしい。それは、もちろんバーンスタイン指揮ウィーン・フィルによる熱気のある伴奏によるところが大きい。何より独奏者二人の丁々発止のコミュニケーションが素晴らしい。

もしも(魔法使いの)万華鏡みたいに、私の音楽家としての生き方をすっぽり包み込んでしまうような「定式」があるとすると、それは「伝達する」(comunicare)という言葉であって、私の生涯はこの単語の中にすっかり取り込まれています。
私は常に「生」、音楽のために捧げられたこの私の人生を愛してきました。生涯、私は人々に「音楽」を「生きる」歓びと苦しみとを「伝達する」こと以外の何物をも追求してきませんでした。

(1989年6月24日、エンリコ・カスティリオーネに)
バーンスタイン&カスティリオーネ著/西本晃二監訳/笠羽映子訳「バーンスタイン音楽を生きる」(青土社)P13

最晩年のバーンスタインが自身の人生を振り返って述べた意味深い言葉である。
彼の生み出す音楽は、作曲活動にせよ指揮活動にせよ、「生命(すなわち人生)」の喜びや悲しみを分かち合うことにあったのだと理解できる。

1980年代初頭、バーンスタインはヨーロッパ楽壇に君臨し、ウィーン・フィルを振り、数多の名演奏を繰り広げ、ドイツ・グラモフォンにライヴ録音を残していた。当時、僕はしばしばリリースされるバーンスタインの新しい録音を手にして聴いてはどんな演奏にも感激し、感動していた。ブラームスの二重協奏曲もバーンスタインの生命力に包まれた渾身の名演だろう。

ブラームス:
・ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77
・ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品102
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
ミッシャ・マイスキー(チェロ)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1982.9Live)

ヴァイオリン協奏曲はコンツェルトハウス、二重協奏曲は楽友協会大ホールでの録音。
演奏そのものは、クレーメルの独奏が尖がっていて(そういう表現が正しいかどうかわからないが?)僕は正直あまり好みではない。もっとふくよかで豊かな、安定感のある音色を求めて、普段なら絶対取り出さない音盤なのだが、何といってもマックス・レーガーの無伴奏ヴァイオリンのための前奏曲、フーガとシャコンヌ作品117から第6番の前奏曲をカデンツァに採用していることから、ここだけを聴きたさに偶に聴くのである。バーンスタインの伴奏もいつになく重く、鈍重で(決してテンポが遅いわけではないのだがそんな風に聴こえる)、残念ながら心に響かない。
それにしてもカデンツァは出色。クレーメルのヴァイオリンが軋り、うなる。

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