18世紀には、人々の寿命は今日ほど長いものではありませんでした。30代、40代で死ぬ人も多かったのです。このことは、音楽の精神性にも大きな影響を与えていたと思います。誰かが二階の寝室で死にかけている・・・もしかしたら、それは親友の奥さんだったかも知れないし、家族のうちの1人だったかも知れない。そんな状態で仕事をする、ということも、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンの時代には珍しくありませんでした。死はいつも身近にあったのです。ですから、教会の司祭たちの責任は重大でした。彼の前に集まってくるのは、十字架を背負った何百人もの人々、そして、彼自身も大きな十字架を背負っていたのです。音楽を作曲する、あるいは演奏するという行為もまた、精神の深いところに根ざしていました。
~渡邊順生「アンナー・ビルスマは語る バッハの《チェロ組曲》をどう読むか」(2000年10月12日におけるインタヴューより)
ビルスマの音楽は、彼が語るようにまさに「信仰」の上に成り立っている。
精神の深いところに根差そうと、ビルスマは音楽をする。
アントニオ・ヴィヴァルディの音楽についても、清新な音調が聴く者の心を癒す。
明朗さの中にある虚ろな哀感はヴィヴァルディの常だが、それは確かにここにもある。
父親が長男に提供できる音楽教育は基本的にふたつの場であった。ひとつは合唱団とオーケストラへの特別な試験のあるサン・マルコ教会、もうひとつはサン・ジョヴァンニ・グリゾストーモ劇場である。このふたつの場所はヴィヴァルディ家の住居から目と鼻の先であり、小さなアントニオが熱心に通っていたにちがいない。最初はまだ幼かったので父親に付き添われ、それから大きくなると一人で行くようになった。このふたつの場所は、当時の音楽のふたつの側面—宗教的と世俗的—を代表していた。そしてこの両方ともヴィヴァルディの音楽美学に分かちがたく共存することになる。
~ジャンフランコ・フォルミケッティ/大矢タカヤス訳「ヴィヴァルディの生涯 ヴェネツィア、そしてヴァイオリンを抱えた司祭」(三元社)P25-26
教会音楽にある世俗性、そして世俗音楽にある宗教性、ふたつの性質が相見えるヴィヴァルディの音楽にある愉悦を悲哀、確かに両極を調和をもって表すのが彼の心底に刻印されるようだ。
ビルスマは死を超越せんと音楽をする。
その昔、ヴィヴァルディの音楽は、どれも同じもののように僕には聴こえた。
どういうわけか、今は違う。
それぞれの楽曲に潜む聖性と俗性の混淆を聴き分ける愉しみに気づいたせいなのかどうなのか、その深みが齢60を超え、ようやく理解できてきたように思う。
各楽章に舞曲名が付記される第9番ト短調RV42が殊更に美しい。
新たな息吹