アントニオ・ヴィヴァルディの音楽に内在する厳しさは、謎に満ちた彼の人生の苦悩や愉悦の表れなのだろうか。よく聴けば、そこには暗澹たる音調が常に含まれる。
息を引き取ったのは1741年7月27日木曜日の夜から28日金曜日の朝にかけてであった。聖ステファノ大聖堂の死亡者名簿にその日の第一番に記録された名前であった。
ドイツ人特有の几帳面さで葬儀の詳細が関係する経費とともに記録されている。出費は次のように列挙される。鐘の小打、主任司祭のお勤め、柩カバー、教区の聖画像、柩一時安置所、墓堀人夫、寺男、ミサの侍者、ケープ着用柩運搬人6人、松明6本、ミサ侍祭、柩。総額で19フローリン弱であった。埋葬式は病院付属の墓地で行われた。
長い間、それはみじめな葬儀だったと考えられてきた。ところが、最近のヨハネス・アグストソンの研究によると、葬儀は中流ブルジョワ階級のウィーン居住者層の規準にかなっており、ヴィヴァルディの最後の数ヶ月は—このアイスランドの研究者によると—伝統が示唆するような困窮のうちに過ごされたとは思えないという。
~ジャンフランコ・フォルミケッティ/大矢タカヤス訳「ヴィヴァルディの生涯 ヴェネツィア、そしてヴァイオリンを抱えた司祭」(三元社)P323-324
葬られた歴史の真実を解明するのは実に困難だ。
ヴィヴァルディが貧困の中に死を迎えたか、決してそうでなかったか、もはやそんなことは、彼の音楽作品を前にしてどうでも良いことのようにも思われる。
久しぶりに聴いた、ホグウッドによる「オペラ序曲集」の弾ける鮮烈。
300年前の空気感までとり込むような音楽に癒される。
ホグウッドの方法は決して学究的なものに偏らず、ピリオド楽器を駆使しての生命力の獲得が今やこなれており(聴衆の耳が慣れたのだろうと思う)、まさに今ヴィヴァルディによて生み出された音楽のように思えるほど。
ちなみに、「嵐の中のドリッラ」シンフォニア(序曲)では「四季」から「春」第1楽章の主題が移調の上引用される。
日本語文化圏では「交響曲」と「シンフォニア」を区別する慣習がある。これは世界のクラシック音楽受容において日本だけの特殊問題で、その感覚から意識的に脱却しないと国際会議などで恥をかくことになる。そういうことが「音楽学者」と名乗っている方々からいっさい疑問視されない、それが日本のクラシック音楽界の現状ではある。この二分法はシンフォニーの歴史をわかりにくくしている元凶で、すなわちこの区分を前提にする人はシンフォニーの歴史をよく理解しないまま、曲目解説を書いたりしている、ということである。
~大崎滋生著「史料で読み解くベートーヴェン」(春秋社)P178
「交響曲」はシンフォニーSymphonie(独)Symphony(英)の訳語である。シンフォニア(Sinfonia)はそのイタリア語である。イタリアに始まったこの音楽ジャンルはベートーヴェンの時代までその呼称が一般的であった。シンフォニアと呼ぶかシンフォニーと記すかは何語を使うかの問題であり、それによって実体の内実が変わるわけではない。しかしシンフォニアから交響曲へと発展する、というテーゼは成り立たないにも拘わらず、こうした進歩史観に無頓着な現実が日本の西洋音楽史学にはある。
~同上書P180
ヴィヴァルディの歌劇の序曲も、もとは「シンフォニア」である。
大崎さんの指摘通り、シンフォニーとシンフォニアが同義であることをまずは理解し、ヴィヴァルディのシンフォニアとハイドンやモーツァルト、そしてベートーヴェンの交響曲が別物であるという認識を捨てた方が良いのだろうと思う。
これは音楽の進化の中で起こったシンフォニアというジャンルの革新だということだ。
ヴィヴァルディの「シンフォニア」もまた熱い。