茶番と真実

昼間にちらっとテレビをつけるといつもの国会中継。冷静に見ていると、何だか全てが茶番に思えてくる。一昨日あたりからマスコミを騒がせている民主党の小沢代表が辞める辞めないという問題にせよ、テロ対策特別委員会の問題にせよ、何も知らないのは我々一般人だけで、何だかこういう問題に絡む全ての人と政治家がグルで、上手に芝居をうっているに過ぎないのでは、と考えてしまうのは僕だけだろうか?

今夜、とある会合で、昔読んだ老子について話が及び、そういえば老子の最初の言葉が「大道は無形にして天地を生育し、大道は無情にして日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す、吾はその名を知らず、強いて名づけて道という」であることを思い出した。
要は、この宇宙にせよ、地球にせよ、我々が生まれてこの方、動いていることが当たり前だと思っているだけで、勝手に動いているのでもなく、「何か」大いなる力のようなものが働いているということを忘れてはいけない。そして万物に感謝しなければいけない、というようなことを言っているのである。

「たとえ」の視点が少々ずれているといえばずれているのだが、結局、世の中に起こる事柄、事件には必ずそれを動かす「大本」が存在し、その「大本」の意思によって全てが決まり、動いていくものなのである。ゆえに、じたばたせず、向かうべき方向だけしっかりと舵取りをしたら、「蟻の目」ではなく「鳥の目」を忘れずに、あとは自然に身を任せその時の「流れ」に乗っていくことが大切なのだろう。

旧ソビエト連邦の人間国宝とも言うべき音楽界の至宝ショスタコーヴィチもソビエト共産主義という体制に生涯身を置きながら、ある意味上手に世渡りをした天才芸術家である。
彼の残した楽曲はモダニズムに感化された現代音楽ではない。また、19世紀ロマン派の名残を引き摺ったロマノフ王朝的な浪漫音楽でもない。ショスタコーヴィチはどのジャンルにも属さない孤高の作曲家である。ショスタコーヴィチはショスタコーヴィチというジャンルなのだ。

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番~第13番
ボロディン四重奏団(オリジナル・メンバー)

最晩年の2曲を欠いた変則的な全集。どういう理由で録音されなかったのかは調べていないので僕は知らない。今日は第7番嬰ヘ短調作品108、第8番ハ短調作品110、第9番変ホ長調作品117、第11番へ短調作品122の4曲を聴いたが、どの音楽もベートーヴェンを越えた「人間」を感じさせない「何か大いなるもの」に突き動かされているのではないかと錯覚を起こさせるほど完璧に創作された楽曲である。
体制に対し、茶番のような曲を書いた時もある彼だが、弦楽四重奏というジャンルに限っては駄作は皆無。おそらく共産党のお偉いさん達は、陽のあたる交響曲というジャンルにはあぁだこうだと文句をつけ作曲家にプレッシャーをかけたようなのだが、こと室内楽というジャンルに関してはほとんど注文をつけずに、ドミトリーがある意味好きなように書けたことが、最高傑作揃いのカルテット創造につながったようである。ドミトリー・ショスタコーヴィチの「真実」が聞こえてくる。

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