ドイツの降伏から間もなくの、カーネギーホールでの録音。
戦勝に沸く合衆国で、独墺を追われたブルーノ・ワルターは何を思い、師グスタフ・マーラーのこの作品を演奏したのだろう?
ようやく終息した戦いに対する安堵の念。それこそ天上の生活と同様のこれからを願い、ワルターは祈りを込めて音楽に向かう。
実は、この録音の1ヶ月半前、ワルターは長年連れ添った最愛の妻エルザを病気で亡くしていた。ここには間違いなく、深い哀悼の念も刻まれているのである。
生来は闘士ではない人の代わりに疲れを知らぬ勇敢さで戦ってきた彼女は、いまや最期の闘いに長く辛い月日を送っていた―誰も勝つことのない戦いに。私の傍らにあってほぼ44年、余りにも刺激の多い人生を終えて、彼女は私と娘のもとを去り、永遠の命の内に、彼女にふさわしい平安を見つけに行ったのだ。
~エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー/高橋宣也訳「ブルーノ・ワルター―音楽に楽園を見た人」(音楽之友社)P149
夫人の死の直後に残したワルターの言葉は真に切ない。
ちなみに、マーラーの交響曲第4番ト長調を愛して止まなかったワルターは、この曲が最新作であった頃、(マーラー自身に代わり)次のように解説していた。
始めから終わりまで絶対音楽で非文学的な、4楽章からなる交響曲であり、どの楽章も有機的で、繊細なユーモアを解する人なら誰でも理解できます。・・・初めの3楽章は、天上の存在を描写していて、終楽章の歌詞を予示している。第1楽章は喜びに満ちていて、天上の生活を味わっている人間を表わしているのかもしれず、第2楽章は「死神ハインが踊っている」という題も可能で、死神がヴァイオリンを天に向かって弾いている。第3楽章は、聖人の中でもとても真面目な聖ウルズラが、天国を思って微笑み笑っているのかもしれない。しかし、これは各楽章を解釈する様々なやり方の一つに過ぎない。
~同上書P89-90
ワルターのいうように、解釈というのは聴く者の勝手だ。
作曲者自身は、何かの具体的な描写ではなく純粋に音楽を創造したに過ぎないのだろう。世界はすべて「思い込み」で成り立っているゆえ。得てしてそんなものだ。
しかし、1945年のワルターはあくまで亡き妻エルザにこの聖なる音楽を捧げたのである・・・。
マーラー:
・交響曲第4番ト長調(1945.5.10録音)
・歌曲集「若き日の歌」より(1947.12.16録音)
デジ・ハルバン(ソプラノ)
ブルーノ・ワルター(指揮、ピアノ)
ニューヨーク・フィルハーモニック
第3楽章の濃密な歌はワルターの真骨頂。
レナード・バーンスタインが、初めて聴いたマーラーの交響曲は第4番だったという。
第4番。ブルーノ・ワルターの指揮だった。大学生の頃、めちゃくちゃに感動したね。特に第3楽章。
~ジョナサン・コット著/山田治生訳「レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー」(アルファベータ)P109
やっぱりこの緩徐楽章は特別だ。
残念ながら、終楽章のデジ・ハルバンの歌唱は、透明感に欠け、どこか暗く重い表情で僕好みでない。
とはいえ、それが「若き日の歌」となると、曲調と詩の内容が彼女の声質にぴったりで、しかも、ワルターの絶妙なピアノ伴奏に背中を押され、感動的な仕上がりになっている。
例えば、リヒャルト・レアンダーの詩による第2曲「想い出」にある憂愁!!
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