
1902年作曲の「亡き児をしのぶ歌」とは無関係だが、マーラーは最愛の我が子を病気で亡くしている。
1907年、マーラーの上の子供が死んだ。4歳になるかわいい落着いた女の子だった。その後まもなく医者の診察を受けた結果、彼自身の思い心臓障害が発見された。こうして子供の死という悲しみに加えて医者に指示された養生と職業上の義務および生活ないし創作の習慣とをどう一致させるべきかという心配が生じ、ウィーンを去ろうという考えが、彼のなかで否定できない力を得たのである。ちょうど彼のところへは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に来ないかというコンリードからの申し出が来ていた。それによると、勤務時間がいちじるしく短くなるばかりか収入はぐっと増し、それにともなって、彼の心臓病からみて望ましい家庭の安定もわずかな年月のうちに約束されていた。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P237
身内の不幸と自らの心身の不調。
それと同期するように海外からの仕事の打診。
劫難は新たに生まれ変わるためのきっかけであることは確かに間違いないだろう。
だが途中で彼は、骰子はすでに投げられた、自分はここを去るだろう、ともらしたのである。私は歌劇場の舞台がおそるべき損失をこうむること、また自分の任務を断念したら胸のなかに空虚が生じはしないかということを放したが、彼はこんな美しい言葉で答えた、「私はこの10年のうちに自分の限度をふみ越えてしまったよ。」ひじょうに心を動かされ、黙って彼の家までついて行った私はその晩、彼の決心の意義と彼の業績の歴史的な意味とについて彼に手紙を書き、私の感謝の気持を表明した。彼はこんな返事をくれた、「私たちふたりは、おたがいに何を意味するかということについて、言葉をついやす必要はないのです。私はきみほどよく、自分を理解してくれていると感じられる人を、ほかに知りません。また私のほうも、きみの魂の坑道のなかに深く滲透したと思っています・・・。」
~同上書P238
師グスタフ・マーラーとの切実なる思い出は何と尊いことだろう。
師弟というよりも彼らは親友、あるいはソウルメイトという関係に近かったように思われる。
そんなブルーノ・ワルターのマーラー解釈が悪かろうはずがない。
ヴィレム・メンゲルベルクとはまた違った意味で、正しい演奏がここにはあろう。
甘美で哀しいアダージェットを録音した翌日のコンサートは、ナチスの妨害に遭ったことは有名な話(鬼気迫るマーラーの第9番に魂までもが震えるほど)。
深い、休息にみちたアダージョがひびきはじめる。また、第3交響曲の終りと同様、神の愛が語る。しかしそれはもはや発芽し、開花する愛ではなくて、それは死に赴く自然の愛である。生命充足の調性であるニ長調は、崇厳の調である変ニ長調に下ったのである。偉大なるパンは創造主ではなく、救済者として現われる、生成は変化して消失となる。
(パウル・ベッカー)
~EAC-57048ライナーノーツ
それにしてもフェリアーを独唱に迎えた「亡き児をしのぶ歌」の純白の美しさ。
まるであの世とこの世を往来する能舞台のように、そこから醸される神秘は他では聴くことのできないもの。彼女は癌のため1953年10月8日に41歳で亡くなるが、4年前の録音はそれほどの気迫に満ち、歌うこと、音楽をすることの喜びを分かち合ってくれる。
フェリアー、ワルター、そしてウィーン・フィルの三位一体こその名演奏だ(いまだにこれに優る録音はない、少なくとも個人的には)。
