
「まじめな仕事は、真の喜びを与える」(セネカ)
「人間の尊厳は、君たちの手にゆだねられている。それを守りたまえ」(シラー)
「芸術家よ、創造したまえ、語るなかれ」(ゲーテ)
(1956年7月)
ヴィルヘルム・バックハウスが好んだ金言だそうだ。
確かにバックハウスにまつわる伝記の類や彼の言葉などはほとんど残されていないように思う。彼はゲーテの言葉を体現するように、創造をすることで自身の存在を、そして人生を表現したのである。
東京大学教授の杉田英明さんの「ヴィルヘルム・バックハウスと日本人—夏目漱石から池田理代子まで—」という論文が面白い。自らについては多く語らないバックハウスが語ったいくつかのエピソード。
私は音楽会の用意をする時、何の練習よりも先ずスケール(音階)の練習をしている。それに加えてアルペジオとバッハ、これが私のテクニックの基礎である。
~杉田英明「ヴィルヘルム・バックハウスと日本人—夏目漱石から池田理代子まで—」P12
「驚くべきテクニックの見世物だけでピアニストの名声が作れる時代は過ぎ去」り、公衆は「より以上芸術家の魂に近いものを渇望している」
~同上P12
これらは1912年から13年にかけて行われたインタビューからのようだが、若き日のバックハウスがヴィルトゥオーゾだったことはもちろん、音楽に内在する心をいかに表現できるかが大事だと語っている点が興味深い。
おそらくバックハウス(85歳!)最後のセッション録音だろうか?(死の2,3ヶ月前)
ジュネーヴはヴィクトリアホールでのベートーヴェン。
(ベートーヴェンは1827年3月26日に亡くなっており、バックハウスは54年後の1884年3月26日に生れているという不思議な符号)
ベートーヴェンのソナタの中でも有名曲の陰に隠れた作品たちだが、バックハウスの手にかかるとどれもが黄金の輝きを放つよう。とにかくシンプルで、自然体で、ベートーヴェンの心の内を見透かすかのような美しさを醸す。
中でもベートーヴェンが世事に多忙で創作がままならなかった時期に生み出された第27番ホ短調の無骨ながら音楽しか感じさせない老練のピアノに感動する。
彼は極端に演奏が難しい曲目として「ゴドウスキーのショパンのエチュード(殊に作品25-1の変イ長調)」「リストのドン・ジュアン幻想曲」「ブラームスのパガニーニ変奏曲」「ベートーヴェンの作品106の奏鳴曲」の4つを挙げている。このうち「パガニーニの主題による変奏曲」は当時の彼が最も得意とする作品であったし、ベートーヴェンの「ソナタ」第29番変ロ長調作品106(ハンマークラヴィーア)はルービンシュタイン・コンクールで演奏し、その後も晩年に至るまでしばしば取り上げた好みの作品であった。これに対し、演奏の難しさと技巧の複雑さとは別物であるとして、「モーツァルトの協奏曲をよく弾くことは。非常にむづかしい仕事である」「ハイドンやモーツァルトの奏鳴曲の如く、比較的に簡単な曲に何ヶ月の準備が費やされるのであるか、聴衆は演奏家にとって明かなこうした仕上の苦心については全く盲目である」と語っているのは興味深い。
~同上P13
最晩年に「ハンマークラヴィーア・ソナタ」が再録音されなかったことが何より残念でならない。
