
不滅の恋人と言われるアントーニエ・ブレンターノ。そして、ゲーテとの邂逅。
ベートーヴェンの極めて個人的な出来事は、いずれも1812年夏、湯治のためにテプリッツを足場にカールスバートなど訪れたときのこと。
同じ頃、ベートーヴェンは性格の異なる2つの交響曲を書いていたという。
(1812年)
07.01. LvB:プラハ到着
3泊する(キンスキー侯のアポを取るため)
07.03. ブレンターノ夫妻もプラハ到着
07.04. キンスキー侯と会い、未払いの年金支払い交渉
内金として60ドゥカーテンの支払いを受ける
07.05. LvB:テプリッツ到着、処方された湯治のためテプリッツを足場にカールスバートなど湯治場に出かける
07.05. ブレンターノ夫妻:カールスバート着
07.06. 朝から07.早朝にかけて
“不滅の恋人”に書簡3信(未投函のまま? 相手から差し返された? 死後発見)を書く
呼びかけられている婦人は、既婚者で日常的にヴィーン滞在、同地で知り合い、直前に邂逅、
彼女も旅行中で“K”(おそらくカールスバート)にいる彼女を想定して書かれ、
愛する2人が一緒になるには克服しがたい障害あり
※BGA(書簡番号)注では具体名に言及していないが、
この条件にあてはまるのはアントーニエ・ブレンターノをおいてほかにいない
07.14. ゲーテ:テプリッツ到着、その後2人の邂逅
かなり親しく交流(ゲーテの日記によれば19-21, 23日に会う)
~大崎滋生著「ベートーヴェン 完全詳細年譜」(春秋社)P254
大崎さんの緻密な研究成果の面白さ。ここまでベートーヴェンの足取りが読み込めるのは、それだけベートーヴェンが手紙含め証拠となる諸々を残したからだ(後世の僕たちはその事実に感謝せねばならない)。
09.08. LvB:カールスバートに戻る、ゲーテと再び交流
09.10. LvB:テプリッツに戻る、滞在届09.10.
この間にSy.8の作曲が進展
~同上書P256
実はこの頃、ベートーヴェンの体調は思わしくなかった。
09.16. テプリッツに滞在するアマーリエ・ゼーバルト宛
「私は昨日からすでに本調子ではなく、今朝からはもっと悪くなり、不消化なものが原因で・・・」
その結果、予定を延ばして月末まで滞在
09.29. LvB:テプリッツを発ちリンツに向かう
~同上書P256
凡事に多忙で、精神面のストレスもあろうが、やはり本人の書簡にもあるように食事が病の原因であり、結果的に彼の死因の遠因ともなったのだと考えられる。
そしてまた外の世界では、ナポレオンがモスクワに入城し、結果的に惨敗、撤退することになっていたことも興味深い。
ベートーヴェンの激動の人生、同時に大変革の世界、歴史の大きな変転の時期。
そんな時代に創出された傑作、交響曲第7番イ長調、そして第8番ヘ長調!
ベートーヴェン:
・交響曲第7番イ長調作品92
・交響曲第8番ヘ長調作品93
クルト・ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管弦楽団(1981.1.8-10&12-17録音)
若き日のザンデルリンクが最も影響を受けた指揮者はオットー・クレンペラーだったという。確かにこのベートーヴェン全集はほとんどクレンペラーをひな型にするかのように相似形の造形を示す。

堂々たる第7番イ長調はもちろん素晴らしい演奏だが、それ以上に心に沁みるのは第8番ヘ長調。これほどまでに堅牢なスタイルで、かつ愉悦に溢れるベートーヴェンを聴かせるのはクルト・ザンデルリンクくらいではないかと思わせるほど。録音のつい10年前まで確かにクレンペラーが棒を振っていたオーケストラである(当時はニュー・フィルハーモニアだったけれど)。音楽は弾け、喜び、そして踊る。

なるほど2つの交響曲に共通するのは喜びだ。それは不滅の恋人との出会い、あるいは文豪ゲーテとの邂逅などの影響も直接ではないにせよあるのかも。病に倒れた時期であると同時に精神的な愉悦と安寧に、あるいは情熱に満たされた時間だったのだと僕は空想(妄想)する。
そんなベートーヴェンの心底を如実に示してくれる演奏がこのクルト・ザンデルシンク盤なのである(古き良き時代の、時間をかけたロンドンはアビーロード第1スタジオでのセッション録音の美しさ)。