内田光子 ヤンソンス指揮バイエルン放送響 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(2013.8.8Live)

三島由紀夫に「葉隠入門」という書がある。
そのはじめは、「『葉隠』とわたし」と題されたプロローグだ。

若い時代の心の伴侶としては、友だちと書物とがある。しかし、友だちは生き身のからだを持っていて、たえず変わっていく。ある一時期の感激も時とともにさめ、また別の友だちと、また別の感激が生まれてくる。書物もある意味ではそのようなものである。少年期の一時期に強烈な印象を受け、影響を受けた本も、何年かあとに読んでみると、感興は色あせ、あたかも死骸のように見える場合もないではない。しかし、友だちと書物との一番の差は、友だち自身は変わるが書物自体は変わらないということである。それはたとえ本棚の一隅に見捨てられても、それ自身の生命と思想を埃だらけになって、がんこに守っている。われわれはそれに近づくか、遠ざかるか、自分の態度決定によってその書物を変化させていくことができるだけである。
三島由紀夫「葉隠入門」(新潮文庫)P7

僕の場合は、さしずめ音楽、否、音盤だといえる。
西洋の古典音楽に首ったけになり、寝ても覚めてもレコードやエアチェック・テープの再生に勤しんでいたのは40数年前。その後の人生で一層の名演奏、名録音に出会い、至高ともいえる実演に出会ったとしても音盤の価値自体は何ら変わらない。
その意味では、記憶に刷り込まれたそのもの自体は不変なのである。

ここのところベートーヴェンとワーグナーをとっかえひっかえ聴いている。
過去に繰り返し聴いたもの、そしてまた新たに出会ったもの様々。中でとりわけ感銘を受けたのは内田光子がマリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送響をバックに弾いたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番!

2013年のプロムスでのライヴ録音。内田はプロムスは約20年ぶりの登場だったらしい。
まるでベートーヴェン自身が弾いているかのような錯覚を覚えるのは、音楽に生命力が漲り、今ここで即興的に創造されているかのような印象を受けるからだろうか。少なくともベートーヴェンの持つ女性性の部分が明らかに顕れたこの作品を、いかにも女性性の権化のような指さばきで軽やかに、しかし芯のある音を生み出す様子が、冒頭からはっきり見てとれる。それに、内田の演奏中の陶酔の表情が、かつて(若い頃)より自然体になっていることが興味深い。

第1楽章アレグロ・モデラートの、特にあまりに劇的で美しいカデンツァに僕は惹かれる。そして、第2楽章アンダンテ・コン・モートは冒頭の弾けるリズムに、ヤンソンスの解釈より内田のそれが優先されていることがわかる(少なくとも僕にはそう見える)。アタッカ出奏される終楽章ロンド(ヴィヴァーチェ)の喜びよ。

終演後の聴衆の歓喜と熱気がまたすごい。彼らは内田光子の再登場を随分待っていたのだろうと想像する。

しかし、死だけは、「葉隠」の時代も現代も少しも変わりなく存在し、われわれを規制しているのである。その観点に立ってみれば、「葉隠」の言っている死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだということを「葉隠」は主張している。われわれはきょう死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるを得ない。
われわれの生死の観点を、戦後20年の太平のあとで、もう一度考えなおしてみる反省の機会を、「葉隠」は与えてくれるように思われるのである。

~同上書P27-28

いかにも三島らしい論だが、生死は一体であるというのは確かだと思う。
一体というより表と裏であり、意外に今のこの生こそが「裏」であってもおかしくないだろう。


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