
戦前、一世を風靡したクラウスとゴールドベルクのデュオ。
それでも、二人の共演は続いた。ナチス・ドイツが世界に勢力を拡大するにつれ、演奏を許される場所は狭められていく。リリーにとってもゴールドベルクにとっても、黄金のデュオと呼ばれた二重奏は大切な音楽活動の柱であった。
思えば、1936年の日本公演の頃が、ゴールドベルクとの親密の絶頂期であった。デュオの演奏は続いていても、音楽ばかりでなく、見るもの触れるもの、何もかもの感動を共有したいという熱の激しさは、リリーの心から退いてきていた。
マリア夫人の嫉妬も、疎遠を生む一因であった。あまりに息の合った演奏に、実は二人は結婚しているとの噂が立った。リリーとの公演旅行が続くと、マリア夫人は気が休まらなかった。
~多胡吉郎「リリー、モーツァルトを弾いて下さい」(河出書房新社)P71
感情に左右される人間というものの宿命というのか。
この世界(此岸)に永遠というものはない。
しかし、残された戦前の録音に刻まれる音楽そのものは(ある意味)永遠だ。
特に、日本の聴衆が二人の演奏でモーツァルト(例えばマンハイム旅行中に作曲されたK.296)に開眼したというエピソードが興味深い。
アンコールに、モーツァルトを望む声も多かった。日本人は世界で最もモーツァルトを愛する人たちなのかもしれないと、リリーは思うことさえあった。20世紀のモーツァルトを伝えるのが自分の使命だと信じてきたが、この国で自分の撒いた種の大きさに、我ながら驚くほどであった。
「シモン、モーツァルトが生前、この国のことを知っていたらねえ・・・。必ず、興味を持ったはずよ」
「『魔笛』の主人公タミーノ王子の衣装は、『日本の狩衣のような恰好』となっているらしいよ。まるっきり知らなかったということではなさそうだね」
「『トルコ行進曲』を作った人よ。異文化やオリエント世界に、興味津々なの。子供のような好奇心に溢れた人だったのだもの、当然よね」
~同上書P60
モーツァルトの音楽に共感する二人の共鳴が、演奏をより高貴で美しいものに昇華するようだ。それは、ザルツブルク時代の作品においても、あるいはウィーン時代末期の作品においても同様の愉悦を創出するという点で、モーツァルトの作品が孤高であり、作曲家の意志を離れて音楽として独立していることを示すのである。
個人的には1935年の録音(K.296及びK.379)にシンパシーを覚える。
K.296の第2楽章アンダンテ・ソステヌートでは、ヨハン・クリスティアン・バッハの主題が引用されているという(あまりに美しい)(日本人が好みそうな音楽だ)。
そして、ベートーヴェンが刺激を受けたとされるK.379の深遠な音調こそモーツァルトの真骨頂だろう。ここでクラウスはどちらかというと自身を抑え、ゴールドベルクのヴァイオリンを引き立てるが、主題と変奏たる第2楽章終盤では一気にピアノで歌い、発露するのだ。
