
1835年から36年にかけてシューマンが書いたロッシーニに関する小論がある。
当時、ドイツ国内に於いてはロッシーニは当代随一の音楽家として持て囃されていた。
ある程度ドイツ人に活気を与えているというだけの話なら、我国でロッシーニのものをみな抑圧してしまうのもあまりに一面的だろう。ロッシーニは誠に優れた装飾画家だが、彼から人工照明や人目をまどわす舞台の遠さというものを取りのぞいてみたまえ。何が残るだろう。元来、僕は、聴衆のことを考えてやれという説だとか、慰安と救いの主ロッシーニとその一派などという話をきくと、十本の指がうずうずしてくる。
~シューマン著/吉田秀和訳「音楽と音楽家」(岩波文庫)P102-103
シューマンはロッシーニにはどちらかというと批判的だったことがわかる。
その上、彼はベートーヴェンと比較し、次のようにも書くのだ。
「ロッシーニ、ベートーヴェンを訪う」
蝶々が鷲に出会った。鷲は、うっかり翼を動かしたら蝶々をおしつぶしてしまうので、道をゆずってやった。 オイゼビウス
~同上書P103
よく考えると強烈な言い様、比喩である。
ロッシーニの小荘厳ミサ曲を久しぶりに聴いた。
晩年のロッシーニが書いた傑作だと僕は思う。
少なくともシューマンが評した頃から30年という時を経て、ほぼ隠居しているロッシーニにあって、実に余分なものが削がれた、作曲家の真の心がここに反映されているだろう(およそ信仰などというものとは程遠い音調だけれど)。
1863年、ジョアキーノ・ロッシーニは、パリの貴族フレデリック・ピレ=ウィルから委嘱を受け、ミサのラテン語典礼文を作曲した。彼はそれを「プチ・ミサ・ソ・レネル」と名づけ、自筆楽譜の冒頭に「ああ、我が老年期の最後の大罪」と記した。
この作品は、翌64年3月14日、パリのピレ=ウィル家の邸宅で非公開初演された。
編成は小さいが、80分近くを要する大曲。
キリエは慈悲を懇願するだけでなく、それを切望する。中間のクリステ・パートはアカペラのフガートを形成し、キリエの感情の高ぶりと見事な対比を示す。
グロリアは、伝統的な、そして最良の意味で、200小節を超える精巧な二重フーガで終結する(ピアノによる素早い8分音符の伴奏は、稀な方法で対位法的な推進力を生み出している)(以下、IIg参照)。
ちなみに、音楽学者エドゥアルト・ハンスリックが「小荘厳ミサ曲」について尋ねた際、ロッシーニは次のように断言しなければならないと考えていたそうだ。
これは、あなた方ドイツ人にとって教会音楽ではありません。私の最も神聖な音楽は、依然としてセミセリア(半分シリアスなオペラ)なのです。
(ロッシーニ)
なるほど、ロッシーニの答は明快だ。
果してこの音楽に神聖さよりも官能的な音調を感じ取るのは彼にとってあくまでオペラの一つであったからだ。
ところで、実際のところ、(世間の評価と違い)ロッシーニは実に謙虚な人であったことがわかる。
1860年3月、ワーグナーとの会見の中で彼は次のように述べている。
私の音楽家人生の中でも、幸いなる数瞬を貴方は挙げてくださいます。しかしながら、そんなものはいずれも、モーツァルトやハイドンの作品と比べると、なんでもないでしょう? あの巨匠たちの、柔軟な巧みさ、作曲の技において、あんなにも自然に、確実でいられる方法への私の感嘆のほどは、十分にはお伝えできません。常に、その点を羨ましく思っておりました。しかし、それは教室で学ぶことなのでしょう。
もっとも、自分がモーツァルトでない限り、教えを受けてもそれが有益とはならなかったでしょう—貴方のお国の話ついでに、バッハについて言えば—彼は圧倒的な天才です。ベートーヴェンを人類における奇才とするなら、バッハは神の奇跡です! 私は、バッハ作品の大出版企画の購読者です。
~エドモン・ミショット/岸純信監訳「ワーグナーとロッシーニ巨星同士の談話録(1860年3月の会見)」(八千代出版)P35-36
