クラウス モラルト指揮ウィーン響 モーツァルト ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491(1951録音)

最近は、書籍に感銘を受けて懐かしい音盤を取り出すことが増えている。
多胡吉郎著「リリー、モーツァルトを弾いて下さい」が滅法面白い。

著者はリリーの実演を聴いたことがないという。
しかし、著者の、大勢の関係者へのインタビューなど、情報収集力は並大抵でなく、おそらく相当の時間をかけての労作は、もちろん想像の部分も多くあるだろうが、細かいところまでがリアリティに溢れ、読み応え十分で、何よりリリー・クラウスの演奏の素晴らしさを教えていただけると同時に、彼女の人間力の確かさが描かれていて、彼女の数多の録音を一つ一つひもとかざるにはいられなくなるほど面白いのだ。

事実は小説よりも奇なり。
中でやっぱり(タイトルが示す)稀代のモーツァルト弾きのモーツァルト。
それも、最も脂の乗っていた1940年代から50年代にかけての録音がとにかく絶品。

戦時中、ジャワに拘留されていたリリーは、毎週のようにラジオ出演し、ミニコンサートを開いていたという。メインとなるプログラムは敵性音楽でない独墺系のものが中心。そこでは時に協奏曲も披露され、聴衆の心を癒した。

オーケストラのタクトにもだいぶ慣れた頃、飯田は思いきってリリーに提案をした。
「マダム・クラウス、何かコンチェルトをやりましょう。私のオーケストラに貴女のピアノで、協奏曲をやらせて下さい」—。

多胡吉郎「リリー、モーツァルトを弾いて下さい」(河出書房新社)P127

リリーの返事は決まった。
「分かりました。やりましょう。でも、どの曲にするかは、私に選ばせて下さい」
そう言って、リリーはしばらく考えた後、返事を待つ飯田に告げた。
「決めました。モーツァルトのピアノ協奏曲なら、『24番ハ短調』にしましょう」
飯田は即座に承諾した。
「日本の音楽ファンは、貴女がジャワから演奏するのを知って驚くことでしょう。皆、喜ぶに違いありません」—。

~同上書P129

本番に向けてのリハーサルは真剣そのもので、時に激しいほどの要求がリリーから出されたという。

「今の世界を思って! 戦争の悲劇、これは、私たちのための音楽なのよ!」
次第に、飯田にも分かってきた。何故、数あるモーツァルトのピアノ協奏曲のなかから、リリーがこの「ハ短調協奏曲」を選んだのか―。
もっと軽快な、朝の散歩にでもふさわしい長調の曲がいくらでもあるのに、リリーはわざわざこの嵐のような短調の曲を選んだ。明らかに、彼女は今の時代の悲劇にこの曲の悲愴感を重ねている。時代の暗黒を嘆き、その先に希望と光明を願っているのだ。

~同上書P131

果してその本番は最高の出来だった。
オーケストラの面々までもが涙を浮かべながら必死で演奏したハ短調協奏曲。

明日には旅立つ兵士の胸にも、リリーのモーツァルトは永遠に刻まれた。
~同上書P136

戦時中のことだから実況録音などは残っていなかろう。
オーケストラの技量も現代に比べれば随分劣っていただろうと想像する。
しかし、技術的な面を超えて、そのときの協奏曲は見事に人々の心をとらえ、魂に響いたのだろう。それこそ芸術家の鑑たるリリー・クラウスの覚悟、本気の成せる業だった。

モーツァルト畢生の、飛び切りの名曲の真意は、このクラウス盤でこそわかるのではないかと思った(60年代の新盤ではなく、このモノラル盤の瑞々しい、モーツァルトの愉悦と悲哀が交錯する録音)。

第1楽章アレグロは決して暗澹たるものではない。珍しく重厚なモーツァルトが慟哭するが、それでもそこには十分な慈愛が感じられ、屈指の作品だとあらためて思う。

そして、この第2楽章ラルゲットはモーツァルト弾きクラウスの真骨頂だろう。
リリーは、ピアノを弾くときはトランス状態に入っていると言う。この、音楽しか感じさせない無為自然の音楽こそ多くの人に聴いていただきたいシンの名演奏だと思う。

さらに、終楽章アレグレットの、ベートーヴェンにも比肩する堂々たる希望の舞踏に感銘を受ける。

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