ワルター指揮コロンビア響 ワーグナー 「ジークフリート牧歌」リハーサル風景(1959.2.27録音)

ブルーノ・ワルターには、「ジークフリート牧歌」のリハーサル風景の録音が残されている。最晩年の記録であり、音楽がみるみる温かみに溢れる様子が明確に刻印されており、実に興味深い。(特に「ディミヌエンド!」や「ピアノ!」の指示が頻出し、「モア!モア!」という煽るワルターの激しい声が、音楽に対する誠心誠意のように聴こえ、オーケストラがワルター色に染まっていく様子が垣間見え、感動的だ)

こうして、音楽を一生のテーマに選びとった彼の人生はふたたび「うたごえ」となった。その演奏ぶりは柔軟であっても真情に溢れ、誇張がないのに印象あざやかである。ワーグナーに震撼され、マーラーによって開眼しながら、オペラ劇場の泥沼のなかを—人間的にも芸術的にも—ごまかさずに生きぬくことによって、いつしか「幸せも不幸せも」ことごとく昇華したモーツァルトの世界へ、《音楽の道徳的な力》の確信へと成長するが、やがてナチの反ユダヤ運動の暴風をまっこうから受けて、ついにアメリカへ漂着する彼・・・その軌跡は、一見なだらかに女性的でさえあるけれども、純粋な憧れと執拗な戦いによって支えられている。かりにトスカニーニを古代ローマの怒号する武将に、フルトヴェングラーを中世ゲルマンの瞑想する学僧にたとえるならば、ワルターはさて、どう言えばよいであろうか。
「訳者あとがき」
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P459

内垣さんのあとがきの素朴なこの問いをChat GPTに訊いてみたところ、次のような回答だった。

「古代ギリシアの哲人にして、温和なる市民の如き音楽の語り部」
ワルターは、トスカニーニのような激しさやフルトヴェングラーのような形而上性ではなく、深い人間愛と調和、自然な歌心をもって音楽に臨みました。彼のモーツァルトやマーラーには、日だまりのような暖かさと、人生への信頼が満ちています。
だからこそ、軍人でも僧侶でもなく、人間の理性と感情をバランスよく湛えた古代の哲人、または「アテナイの公共広場で人々に語りかける賢者」のような存在にたとえられるのではないでしょうか。
あるいはもう一歩踏み込んで、
「ルネサンス期の教養ある貴族」―芸術と人生を優雅に結びつける、穏やかな審美眼の持ち主
という比喩も考えられます。

お見事だ。

・ブルーノ・ワルター・リハーサル 「ジークフリート牧歌」(1959.2.27録音)
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
・ワルター、ワーグナーとブラームスの録音について語る

ブルーノ・ワルターの芸術は永遠であり、普遍的だとあらためて思った。
(特に晩年のコロンビア交響楽団との一連の録音はやはり素晴らしい)

ワルター指揮コロンビア響 ワーグナー ジークフリート牧歌(1959.2&1961.3録音)ほか

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