バックハウス ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第21番ハ長調作品53「ワルトシュタイン」ほか(1959.10録音)

ゲーテなどは、こうして月並みな紋切型に押しこめられた窮屈きわまりない音楽を、文学構想の規範にうまく応用できるのではないかと考えたほどである。万物の内的本質を伝えるという音楽本来の働きを、まるで大洪水のように危険なものと見なして回避し、おきまりの形式の枠内でこの途方もない力と戯れるだけの演奏こそ、音楽芸術が磨き上げた真に祝福すべき成果として久しく審美家たちから歓迎されてきたのだ。そこから出発しながらも、既成の形式を突き抜けて音楽の奥深い本質に迫り、形式のうちに秘められた意味をひたすら忠実に再現すべく、透視者の眼に映る内面の光をふたたび外へ投げかけることに成功したのは、われらが偉大なるベートーヴェンの作品であった。これこそベートーヴェンが音楽家の鑑と讃えられる所以である。
池上純一訳「ベートーヴェン」(1870)
ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P136

実に的を射たベートーヴェン芸術への賛辞こそリヒャルト・ワーグナーの本懐。
「万物の内的本質」を伝えることこそが音楽の役割だとするなら、ベートーヴェンはもちろんのことワーグナーの創造物もその点を見事に衝いているように思う。

激性と安寧が交互する若きベートーヴェンの魂の慟哭よ。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第21番ハ長調作品53「ワルトシュタイン」(1803-04)
・ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」(1804-05)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)(1959.10録音)

例によってジュネーヴはヴィクトリア・ホールでの録音。
高校生のとき、僕はヴィルヘルム・バックハウスの洗礼を受けた。
モーツァルトもブラームスも、当然ベートーヴェンも、バックハウスの演奏で親しんだ。来る日も来る日もバックハウスのピアノを聴いていた。

音楽とその時の事象は、記憶を媒介として密接につながる。
僕の脳みそもバックハウスのベートーヴェンに今でも過剰に反応する。
不思議な懐かしさがこみ上げ、心が躍るのだ。45年ほどが経過しても、いまだにバックハウスのベートーヴェンは僕にとって特別なもの。正直テクニック的な面では、巨匠以上に上手いピアニストは数多だ。ひょっとすると「枯淡」という意味においてもそれ以上に枯れた味わいを示すピアニストは多かろう。

しかし、僕は思う。バックハウスの演奏の凄さは、ワーグナーの言う「既成の形式を突き抜けて音楽の奥深い本質に迫り、形式のうちに秘められた意味をひたすら忠実に再現すべく、透視者の眼に映る内面の光をふたたび外へ投げかけることに成功した」作品たちを、完全再現すべく文字通り「音楽の奥深い本質に迫っている」からだ。

「ワルトシュタイン」ソナタも「熱情」ソナタも、活気に溢れ、音楽はあるときは沈潜し、またあるときは高揚する。重要なことは、その対比があまりに自然であることだ。自然の流れに乗り、呼吸と同期しながら音楽が再生される様子が詳細に記録されており、どの瞬間を耳にしても人間的であり、まるで老練のベートーヴェン自身が演奏しているかのような錯覚にすら陥るのである。

決して流麗とは言えない、ゴツゴツと荒ぶる音楽が、聴く者の魂を刺激する。

過去記事(2008年2月22日)


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