
生きることは内省と解放の連続であり、誰もがそれを求めているのだと思った。
内省とは、すなわち自己の魂にリーチすることだ。
そして、解放とは、他の誰かとつながりを持ち、それを強固にしていくことだ。
その媒介となるものは何でも良かった。強いていうなら肉感的であり、エネルギーとパワーがあることが望ましかった。
一切の前情報を遮断し、他者の評価も気にせず、「ビカミング」を観た。
4人の出会う前、そして出会い、レッド・ツェッペリン号の発信、果してわずか2時間でどこまで描かれているのだろうと興味津々だったが、なるほどセカンド・アルバムのリリース、そしてロイヤル・アルバート・ホールでの凱旋コンサートの模様までが描かれていた。
震えた。
感動した。
生前のボンゾの、インタビューでの生の声が聴けたことが嬉しい。
そして、彼が発した他のメンバーへの思いの丈を、懐かしく、あるいは神妙な面持ちで聴くペイジ、プラント、ジョンジーの姿が映されたとき、レッド・ツェッペリンがあの4人でなければならなかった理由が見えたような気がした(もちろん彼らが創造した音楽そのものは、あの4人でなければあり得なかったことなのだけれど)。
ファースト・アルバムは酷評を買ったという。しかし、彼らはそんなことはまったく気にしなかった。
何より音楽をすることが楽しかったからだと彼らは言う。
それは他の何ものにも代え難かったと。
(まさに、孔子のいう「之を楽しむ者に如かず」だ)
とにかく、自分たちの音楽を知ってもらうためにツアーを続け、一人でも多くの人に演奏を聴いてもらうことを自分たちの命題にしたのだ。そしてその効果はすぐに出た。
また、ジミー・ペイジの、シングルは絶対にリリースしないと決断した先見の明。
(これからはアルバムの時代が来ると読んだ彼の直感は正しかった)
例えば、セカンド・アルバムの劈頭を飾る、例の強烈なリフを誇る”Whole Lotta Love”の中間の前衛的パートは、あくまでシングル・リリースさせないための方法だったそうだ。時間と空間を超えてあらゆるバンドに影響を及ぼした傑作は、半世紀以上を経た今でも新しい。
個人的に、あらためて感激したのは、1969年、ロンドンでの”Dazed and Confused“の強烈な求心力と、ジミー・ペイジがソロで演った”Black Mountain Side”の奥妙なる遠心力(こちらはフィルム破損のため、映像に乱れがあるものの実に貴重)。(本音はすべてがツボなんだけれど)
4人はデビュー直後から走った。
全米を駆け巡り、あっという間に人気に火がつき、故郷に戻ったときにはロックの神様になっていたのだから、自分たちも信じられなかったことだろう(20歳やそこらでそんな風になってしまったのだ)。
願わくば、これ以降のツェッペリンの物語も観てみたい。
挫折あり、復活あり、そして、ボンゾの急逝による解散という急転直下の物語が面白くないはずがない。期待しよう。
ロック音楽は、人間の深層の欲求を満たす表現形態だ。
中でも、レッド・ツェッペリンの奇蹟はその典型のように思う。
今回はIMAXで観たので、音響は相当に素晴らしく、それはそれで大満足なのだが、彼らの実際のライヴを聴けなかったことは、僕の人生の痛恨事の一つだ(あと15年早く生まれていれば可能性はあっただろう)。


