ミロス・フォアマン監督「アマデウス」(ディレクターズカット)(2002)

1984年に公開され、物議を醸した「アマデウス」を観た。
40年近く前、初めて観たとき、僕は衝撃を受けた。そして、感激した。
あのときと鑑賞後の印象は随分変化していた。たぶん僕の感覚が、この間に大きく変わったのだろうと思う。心の器が大きくなったのか? いや、そうは思わない。ただ、少なくとも僕の中でモーツァルトの音楽に対する理解は当時より格段に深まっていることは間違いない。同時に、物語で描かれる人々の深層を読む力は当然ながらかつてよりは強くなっているだろう。

モーツァルトの人生、というより死の謎をピーター・シェーファーはミステリアスに、しかし、とてもリアルに描いた。師でもあったアントニオ・サリエリが嫉妬から暗殺したというフィクションは、あながちないわけでもなさそうに思われる、これ以上は考えられない見事な推理だ。

それにしてもコミカルに(?)描かれるモーツァルト(下品な笑いに象徴される)の、音楽に向き合うときの人が変わったかのような真摯さ、誠実さとの対比は、誰の内にも存在するであろう二面性で、聖俗合わせ飲む天才の、それゆえにこその創造の秘密があるのだろうと思う。文字通りウンコのような彼の俗っぽい日常が、他にはない、師に妬み心を起こさせるほどの崇高な音楽を生み出す糧となっていたことがまたよく理解できるのだ。それは、ここのところ頻繁に話題にする「煩悩即菩提」の顕現と言っても良い。最晩年、借金地獄にありながら天才は悟りの境地にあったのだ(ほとんど聖愚者のよう)。

・ミロス・フォアマン監督「アマデウス」(ディレクターズカット)(2002)
F・マーリー・エイブラハム(アントニオ・サリエリ)
トム・ハルス(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト)
エリザベス・ベリッジ(コンスタンツェ・モーツァルト)
製作:ソウル・ゼインツ
脚本・原作(戯曲):ピーター・シェーファー
音楽・指揮:サー・ネヴィル・マリナー

オリジナルにはない、20分の追加シーンが見もの。なくもがな、と言いたいところだが、通しで観て特別な違和感はないのだからそれはそれで良し。何より今の僕にとって一番の収穫は、嫉妬に狂って暗殺をした(その術は伏せられているが)サリエリが、良心の呵責から精神を病み、自殺を図るまでに至っている点、そして「アマデウス」と言いながら、彼こそがこの物語の主人公である点だ。モーツァルトとサリエリの、おそらく幾度も生まれ変わって出逢いを繰り返す善因善果、悪因悪果の表象、これぞ僕たち人間が抱える最大の課題であり、その解決のために過去何万年にもわたる業を超えることこそが今生の目的であることを暗に示唆しているところが実に意味深い(前世においては立場は逆だったか?)。

特に今の時代は、すべてが自ずと暴露される時代。
偽ることなかれ。良心をもって事を進めよ。そして、日々懺悔せよと天は言う。

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