ヤーロン・ジルバーマン監督作「25年目の弦楽四重奏」を観て思ふ

冒頭にエリオットの詩を引用して、音楽というものが、特にベートーヴェンの作品131が、まさに現在とその場しかないということを表すものだと謳っておきながら、やっぱり「人間ドラマ」の枠を超え切れなかった、観終った直後はそんな印象。
とはいえ、「永遠の調和」の前哨戦(すなわち夜明け前)を映画化したとするなら実に面白いかも(なるほど、「ニーベルンクの指環」における「ラインの黄金」のようなものか)。
ドラマとしてはとても良かった。しかし、残念ながら作品131の世界とは明らかに異なる。崇高なこの作品へのオマージュとして創られた映画だそうだが、それにしてはせせこましい世界に閉じ込めてしまった・・・(いや、よく考えるとこれも違うかも。あくまで作品131の真の世界を現出するためにこのような断捨離が必要なんだと監督は言いたかったのか?)。

抑制の中でしか調和できないとなると、それは真の調和ではない。本当の自由の中でこそすべてはつながり、調和が生じるのだ。それにはそれぞれが一旦すべてを吐き出して、空っぽになるしかない。この映画の始まりは、映画が終わる直前、すなわちクリストファー・ウォーケン演じるピーター・ミッチェルがグループを後にし、チェリストが交替(中国系アメリカ人?名前は失念した)、第7楽章の4小節手前から再び演奏し始めたその瞬間からだ。

ヤーロン・ジルバーマン監督・脚本・製作「25年目の弦楽四重奏」を観た。良かった。実にじわじわと感動が押し寄せる。最晩年のベートーヴェンが、7つもの楽章構成で、しかもアタッカで通すことを指示した作品131は、ただならぬ音楽。ダニエルがアレクサンドルに稽古をつける際、ベートーヴェンの伝記を持ち出して、演奏の前に彼の心を読みとるよう要求するが、少なくとも僕はここでそれはないと断言する。もはや後期のベートーヴェンの内に、完全に音を失ったベートーヴェンの内に、過去の父親への鬱積はない。なぜならベートーヴェンは1802年の「遺書」によって乗り越えているから。でなければ「傑作の森」といわれる時期はないのだ。

そんなちぐはぐは一見いくつもあるが、それでも僕はこの映画を推す。
人間というのはエゴの塊で、しかもそれらがぶつかった時に様々な問題が露呈し、取り返しのつかない事態に陥るのだが、少なくとも「音楽をする」という行為によって、「エゴ」を乗り越えていけるという可能性を示してくれるから。「音楽をする(演奏することも、聴くことも)」ことによる解放というのは今僕の中で最もホットなトピックス。

ヤーロン・ジルバーマン監督・脚本・製作「25年目の弦楽四重奏」
フィリップ・シーモア・ホフマン(ロバート・ゲルバート)
マーク・イヴァニール(ダニエル・ラーナー)
キャサリン・キーナー(ジュリエット・ゲルバート)
クリストファー・ウォーケン(ピーター・ミッチェル)
イモージェン・プーツ(アレクサンドラ)
リラズ・チャリ(ピラール)
アンネ=ゾフィー・フォン・オッター(ミリアム・ミッチェル)
マドハール・ジャフリー(ナディール医師)
ウォーレス・ショーン(ギデオン・ローゼン)

エリオットの最後の詩集「4つの四重奏」第1部から。
「終わりは始まりに先行する。そして、終わりと始まりは常にそこにある。それは始まりの前に、終わりの後にある。・・・とすれば、すべては常に現在なのだ」

そもそもエリオット自身が作品131にインスパイアされて書いているのだから、この一節の意味するところは深い。エリオットは真実を知っていた。彼はベートーヴェンの真意を読み取った。そして、ベートーヴェンは・・・、やっぱり悟っていた。

あらためてベートーヴェンの偉大さを確認。
感動が時間の経過とともに大きくなる。
真に素晴らしい映画。

パンフレットを買ったら、作品131第1楽章冒頭のパート譜が付いていた。素敵。

 


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2 COMMENTS

くまがい

岡本さん、くまがいです。
映画をご覧になったのですね。ありがとうございます。
ごぞんじのアタッカカルテットが出演していますが学校の場面で
とくにカザルスの話をするときに皆の顔が映り、チェロの
アンドリューは 一言 ワオ、と言います。
この映画の裏話をいくつか。

徳永慶子さんのパパより:
アタッカがちょっと出るという話でしたが、結構慶子は第一バイオリン役の女優さんの隣なので写っていましたね。映画のパンフレットにも慶子や ルークの写真が背後ですけれど
フィリップシーモアホフマンのコーチ役として注釈(監督Q&A参照)があったり、監督インタビューにアタッカカルテットのリサーチ フィルムを とって参考にしたこととか、慶子たちが常々言っているメンバーの駆け引きや葛藤や第二バイオリンの立場がセリフの中に出てきて今年10年目のアタッカの未 来を映画に重ねてしまいました。
エンドタイトルにも慶子やアンドリュー、ルークが出演と指導などで何度も名前が登場し、知った顔がスクリーンの向こうにあると言うのはなんだ か不思議な感じがしました。

山崎潤さんより:
館内満席で見終わった後見ず知らずの方と「おもしろかった。見に来てよかった。」
と思わず言葉をかわしてしまい ました。
「同窓生の娘さんが出演して、演技指導をしている」と自慢もしてしまいました。

徳永慶子さんより:
> ●クリストファー・ウォーケンは演奏の練習に対して熱心ではなかった。
> 撮影時は後ろから他の人が手を伸ばして弾いていた。
> ●慶子さんが教えたフィリップ・シーモアはとても熱心だった。
> ●アンドリューは「Wow」の一言でギャラが違った。
> ●慶子さんも笑うシーンがあったがギャラには反映しなかった。
> ●映画の中で「アタッカ(切れ目無く演奏)」という言葉が出るが
監督が気を利かせて入れてくれた。
> ●映画の中で語られたセカンド・ヴァイオリンの役割は慶子さんの話が元になったが、
脚本料は 出なかった。etc.

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岡本 浩和

>くまがい様
ようやく観ることができました。
観ておかないと「もぐり」になっちゃいますからね(笑)。良かったです。
アタッカの連中のお顔も拝見できて良かったです。

何より貴重な裏話ありがとうございます。特に徳永慶子さんご本人のものは興味深いです。
“Wow”の一言でギャラが発生するんですね!

ありがとうございます。

岡本

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