「ブラームスは好きかい?」とロジェがわらいながら言った。
ポールはかれに背をむけていたが、あまり急に後ろを振りむいたので、ロジェは一歩あとずさりした。
「なぜそんなこときくの?」
「帰りみち、音楽会の一部をラジオで聞いたからさ」
「ええ、そりゃそうね、中継されたんだわ、そうだわ・・・でもあなたの音楽趣味にびっくりしたのよ」
~フランソワーズ・サガン/朝吹登水子訳「ブラームスはお好き」(新潮文庫)P68
泣く子も黙るヨハネス・ブラームス。
地に足の着いた、微動だにしないテンポ。
動かないとはいえ、しかし、そこには微かな揺れがあり、それはまさに自然と同期したごくわずかな揺れなのである。たぶん、それこそがクルト・ザンデルリンクのマジックなのだと僕は思う。
ザンデルリンクの指揮するブラームスの交響曲の鷹揚さ。芽吹く春の兆しを予感するように、音楽は内から外へと躍動する。世界は何と平和なのだろう。作曲当時、彼の内面は実に平静だった。ヴェルター湖畔ペルチャッハで練られた音楽は、明快であり、陽気が漂う、ブラームスにしては珍しい開放的な曲想で、僕たちの心を見事に平穏に保ってくれる。
ブラームスの新しい交響曲は、健康的な若々しさと清らかさで光り輝いている。そしてじっくり耳を傾け、深く考えてみるだけの価値が十分ある一方、いつ聴いても実に分かりやすい曲でもある。曲は今までにないほどの新しさに満ちており、どこにも不快な意図が感じられず、打ちひしがれた者の心に新たな決意をうながすものがある。また音楽とは縁遠い芸術分野へ目をそらすこともなく、文学や絵画にひざまずいて、卑屈で厚かましい物乞いもしない。すべてが純粋に音楽的に受けとめられ、表現され、純粋かつ音楽的に我々に働きかけるのである。
(1877年12月30日、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニーのコンサートでの世界初演評)
~日本ブラームス協会編「ブラームスの『実像』—回想録、交遊録、探訪記にみる作曲家の素顔」(音楽之友社)P14
ハンスリックの手放しの賞賛は、作曲家に対する過剰な思い入れもあるのだろうが、間違いないものだ。ザンデルリンクの演奏は、重厚でありながら、初演の時にハンスリックが感じたような、若々しさと清らかさで光り輝いている。
久しぶりにザンデルリンクを聴いて、彼のブラームスのあまりの生気に驚いた。確かに名演奏だとは知っていたが、僕の状態に変容があるのか、それとも世の中の空気に変化があるのか、まるで捉え方が変わった。一つ一つの音が生き、フレーズのつながりは極めて自然体で、文字通り「音を楽しむ」ことができるのである。第1楽章アレグロ・ノン・トロッポ冒頭から終楽章アレグロ・ノン・スピリートまで、内なる慈悲と智慧の顕現というと大袈裟か、人智を超えた一大パフォーマンスの一つであると断言しても良い。
余白の「アルト・ラプソディ」がまた素晴らしい。
温かみのある、そして深い歌唱を聴かせるマルケルトの妙。特に、男声合唱が導入される第3部アダージョでの、すべてに対する感謝の念の放出!管弦楽の滋味ある音色がまた美しい。
「私、忘れないわ」ポールはこう言うと、シモンのほうに目をあげた。
「ぼくも・・・でも、これは別なんだ、別なんだ・・・」
かれは、くしゃくしゃになった顔をポールにむける前に、ちょっとよろめいた。またもやポールは腕のなかでかれを抱きとめていた。かれの幸福を抱きとめたように、かれの不幸を抱きとめていた。そして、彼女は、はげしい、が、美しくさえあるこの悲しみを羨まずにはいられなかった。
~フランソワーズ・サガン/朝吹登水子訳「ブラームスはお好き」(新潮文庫)P159-160
ブラームスの音楽には屈折した愛が潜む。
その点、ザンデルリンクのブラームスは実に健康的だ。