過去の追体験というのは基本無用なのだけれど、たまには良いものだ。曖昧な記憶が呼び戻され、その光景までもが鮮明に蘇り、年齢すらあの頃に戻ってしまうほど。嗚呼、懐かしい。
演奏者は年を取るが、聴く者も当然年を取る。人間は年齢を重ねるにつれ、それぞれに余計な思い込みや枠に支配され、ともすると凝り固まってしまうものだが、ただ虚心に耳を傾け、純粋に音楽に向き合うとそういうものも融けてなくなるような錯覚にとらえられる。
1998年4月のサントリーホールでの「チョン・キョンファ ヴァイオリン・リサイタル」追体験。やっぱりあの日のキョンファは凄かった。
シューベルトの「二重奏曲」第1楽章の、何という柔らかい響き。伸びがあり峻厳ながら包容力豊かなヴァイオリンと優美なピアノによる音響にはモーツァルトの愉悦と哀感が錯綜する。これぞチョン・キョンファとイタマール・ゴランによるマジック。音楽が進行するにつれますます熱く太い芯のあるヴァイオリンの音色にひれ伏す。
チョン・キョンファ衝撃の東京ライヴ第1夜
・シューベルト:ヴァイオリン・ソナタ第4番イ長調「二重奏曲」D574, 作品162
・シューベルト:幻想曲ハ長調D934, 作品159
・シューマン:ヴァイオリン・ソナタ第2番ニ短調作品121
・J.S.バッハ:G線上のアリアBWV1068-2
・クライスラー:愛の悲しみ
・ポルディーニ:踊る人形(クライスラー編)
・ドヴォルザーク:ユモレスク
・ドビュッシー:美しい夕暮れ(ハイフェッツ編)
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
イタマール・ゴラン(ピアノ)(1998.4.26Live)
もはや忘却の彼方にあったが、あの日の公演の白眉はどうやらシューベルトの「幻想曲」だったようだ。シューベルト最晩年の冗長な二重奏曲を一糸乱れずこれほどまでに「聴かせた」デュオはかつてない。これこそチョン・キョンファとイタマール・ゴランの織り成す奇蹟の音楽。
冒頭のピアノによるトレモロから、その優美な調べは晩年のシューベルトの透明な心境を露わにする。その上に鳴るヴァイオリンの仄暗い旋律は、後にも幾度となく出てくるものだが、何という美しさ。これぞキョンファとゴランの超絶コラボレートの妙味!!
続くアレグレットの部分における軽やかで愉しい第一主題、ここでも2人の呼吸はぴったりと合い、音楽は高揚する。そして、アンダンティーノの部分に入った瞬間の得も言われぬ恍惚感。この主題旋律はシューベルト自身の歌曲からの引用らしいが、まるでメンデルスゾーンのような忘れ難き美しさ。ここでのゴランの想いの込め方は並大抵でなく、そのことはこの後の第2変奏でのヴァイオリンとピアノの応答という妙技に引き継がれていく。変奏の内には何とモーツァルトのK.331の旋律も木霊し、シューベルトがいかにこの天才を敬愛していたかがわかるというもの。さらに、第3楽章に相当するアレグロ・ヴィヴァーチェの部分での圧倒的解放によってシューベルトの魂が飛翔し、当夜の聴衆を大きく包み込んでいた。何という幸福感!!演奏終了後の圧倒的拍手喝采の風景にあの日のことをあらためて思い出した。そうだ、僕はこの日このとき「そこに」いたのだった。
シューマンのソナタは、晩年の精神不安定な中で生み出されたものだが、そんなことを忘れさせるほど愉悦に溢れ、堂に入り、かつ明朗な音調でしかもエネルギッシュに進められる。何より肝はここでもゴランのピアノ!!強烈な打鍵と愛に溢れる優しいタッチを織り交ぜ、キョンファのヴァイオリンを見事にサポートする。それほどに息のぴったりの二人だが、もはや共演は叶わないのだろうか?できればまたチョン・キョンファ&イタマール・ゴランの実演に触れたいものだ。
それにしても素晴らしいのはバッハの「G線上のアリア」。静けさに包まれ、地の底からゆっくりと旋律が昇るように奏され、愛に溢れる音楽。こればかりは第2夜冒頭に演奏されたものと合わせ他を冠絶する崇高さ。あの日も最初のフレーズに圧倒されたが、録音で聴いてもその素晴らしさは変わらない。
さらには、4曲披露されたアンコール群!!
クライスラーの、題名通りの悲しみと、それを振り払うような内なる情熱の音化。
クライスラー編曲による「踊る人形」の愛らしさ。こういう小品においてもキョンファは決して力を抜かない。ここでもゴランのピアノは縦横に弾け、可憐。
ドヴォルザークの「ユモレスク」は、主部の明朗さと中間部の哀感の対比が見事。この小さな作品の中に様々な感情を刻み込む音楽性!聴衆の拍手は曲を追う毎に大きくなっていく様だ。あまりの喝采に何度も舞台に呼び出された挙句、最後に彼女が選んだのはドビュッシー。曲目を口頭で添えた後に奏された音楽は言葉にならないほどの美しさ。
あれから17年近く。あの日のことをまざまざと思い出させてくれた貴重な記録。
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