
いかにも即興的。
音楽とは、本来、その字の通り、その瞬間のインスピレーションを拠り所にその場で創造するものだったのだろうと思う。
久しぶりに耳にしたデュオ・クラムランクのモーツァルト・フラグメント集。
未完成の断片が、これでもかといわんばかりにモーツァルトの天才を示してくれる。いつどこでも湧いた楽想をメモに残し、時到れば、あるいは、興に乗れば、作品としてアウトプットし、世に残したのがヴォルフガング・アマデウスの常。
ほぼ知られることのない断片は、全世界を股にかけて活躍していたデュオ・クロムランクが各地で見つけた楽譜をもとに録音したのがこの屈指のアルバムである。
1984年は、ビクター青山スタジオでの録音。一方、1988年はベルギーは、ゲントでの録音。
そして、モーツァルトの音楽においては、内容、形式、表現、ファンタジー、器楽的効果など、いっさいがごく単純な手法によって達成されていることに気づくのである。この日が訪れるとき、君はあらゆる模索、あらゆる欲求から完全に救われるのだ。ここには、老子の言葉の意味で、真に超克をなし遂げたなんびとかが立っているのである。老子はこう言っている。
欲せんとすることなくして欲し、
為さんとすることなくして為し、
感ぜむとすることなくして感じ、小を大とし、
少なきを多しとし、
悪しきを善しとす。
是を以て聖人は終に大を為さず、
故に能く其の大を成す。
君が人生においてこのことを体得しないかぎり、君は決して、神々のごとく現実と喜戯する芸術境地に達することはできまいし、モーツァルトの音楽に、彼が要求しているもの—即ち人格への調和—をあたえることもできますまい。
~フィッシャー/佐野利勝訳「音楽を愛する友へ」(新潮文庫)P43-44
エトヴィン・フィッシャーが挙げる老子道徳経の一節は、混淆されたか、記憶違いか、それとも意訳かわからないが、何にせよ謙虚であることと、無為にして為さざるはなしということを言いたいのであり、その本質がモーツァルトの音楽にこそ通じているのだとしたいのだと思う。
(果たしてモーツァルトがそこまで通暁しているかどうかはわからない)
