
若い頃、フルトヴェングラーのモーツァルトに関し、とても違和感があった。
それは、宇野さんの影響ではなく、自身の頼りない感覚の中でも、何だかうまく説明できないのだが、どうにも心を動かされない、演奏に惹かれない、言葉にし難い違和感だった。
その典型はト短調交響曲K.550。
一聴して、その後、何年も封印したくらい拒絶感があった。(今にして思えば実に大袈裟なんだけれど)
すべては心の器によって作り出されるものだということが、今は分かる。
だから、今の僕の耳には、フルトヴェングラーのモーツァルトはむしろ心地良い。
(別次元のピアノ協奏曲ニ短調K.466も実は当初は好きになれなかった)
フルトヴェングラーのモーツァルトK.466 齢60を超えた青年(?)にはフルトヴェングラーのモーツァルトが必要だ。
時代がかった、およそモーツァルトのスタイルとは程遠い、昔懐かしい、大仰な表現こそフルトヴェングラーの真骨頂。スコダとの第22番変ホ長調K.492第1楽章冒頭、管弦楽の提示部のおどろおどろしい表現を聴き給え。これぞフルトヴェングラー!!
反対に、バドゥラ=スコダの独奏ピアノは何と軽快で清澄なことか。
いわば父レオポルトの重い厳しさの中で自由自在に逍遥するヴォルフガングの心の顕現たるスコダのピアノの可憐さ、美しさ。
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482
パウル・バドゥラ=スコダ(ピアノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1952.1.27Live)
病に倒れる前のフルトヴェングラーの意気揚々たる息吹(それは重たい、仰々しいものだ)が刻印される、渾身のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。旧い録音だが、一聴の価値あり。
まもなくヴィルヘルム・フルトヴェングラー140回目の誕生日。
そしてまた、まもなくヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト270回目の誕生日。
千葉県勝浦市にて祝う。
