
モーツァルトのオペラ。
今ではまったく信じられないことだが、存命当時から、もちろん20世紀初頭まで、決して人気のある演目ではなかったらしい。間違いなくモーツァルトも、時代の二歩も、三歩も先を行く音楽家だったのだと思う。
モーツァルトの主要なオペラは、どれ一つを取ってみても、彼の生前には今日の常識でいうようなヒットにはならなかった。《イドメネオIdomeneo》(1781年)は1786年にウィーンで内輪のリバイバル公演を行っただけである。19世紀に入ってからは1825年までに、数回ドイツ国内で公演された。またそれよりもやや多く演奏会形式で行われている(オペラがもはや劇場に用はないというのを表明する最もまずいやり方が、この演奏会形式である)。1840年代になると《イドメネオ》はリバイバルが進んで、この世紀の終わりまで、ほとんど切れ目なくドイツ国内のどこかの劇場にかかっていた。ドイツ人は明らかにこうしたクラシックに対しての敬虔な務めを果たしたのである。とはいえ《イドメネオ》は《ドン・ジョヴァンニ》のように、劇場の常打ちの演目に加えられたことはない。昔も今も一種の博物館入りの作品であることに変わりはなく、それにしてはみごとな作品だというだけである。
《後宮よりの逃走Die Entfühlung aus dem Serail》(1872年)は初演時には合計34回公演されたが、そのあとこのオペラの演奏団体だったウィーンの帝室ドイツ・オペラ劇団そのものが解散してしまった。《後宮よりの逃走》は各国でそれぞれの言葉に訳されて公演されたが、ドイツはもちろん、どこの国でもこれといった成功を収めなかった。ロンドンでは1866年になってようやくイタリア語版で初演された。しかしイタリアでは1935年まで陽の目を見ていない。それもフィレンツェでドイツ語版で公演されたのである。
《フィガロの結婚Le Nozze di Figaro》(1786年)は、今ではどこの国でも最も有名なオペラといえようが、これも最初のうちはプラハ以外では当たらなかった。それがドイツ語に翻訳されてから、次第に認められていったが、フランスやイタリアではドイツほどの人気は得られなかった。フランスの観客にとっては水割りではない本物のボーマルシェのほうがいいに決まっていたろうし、イタリア人は確実にロッシーニの《理髪師》のほうが好きだった。そういうわけでプランシェやビショップの頃のロンドンの劇場では、難問を解決する常套手段としての“妥協”によって《フィガロ》と《理髪師》を巧みにつなぎ合わせて一つにしていた。
《ドン・ジョヴァンニ》(1787年)は、モーツァルトのオペラの中では最も有名なものと見られてきた。その理由は、これがロマン派にとって飛びつきやすい要素を持っており、彼らが自分なりに解釈し、自分たちのものにしてしまうことができたからである。《ドン・ジョヴァンニ》の運命の中で最も奇妙なのは、ドイツ語を話す国の中で、この台詞のドイツ語訳が15ないし16種類も作られたことであり、それに対してドイツの批評家が口をそろえて、どの訳詞も満足なものはないと言っていることである。モーツァルトの生前にはイタリア語で歌われる正式のオペラは、広い大衆の人気を得るわけにはいかず、かといって、誕生間もないドイツ・オペラの一座には、モーツァルトの声楽曲の難しいところを十分に歌いこなすような歌手はほとんどいなかった。
ダ・ポンテの作詞になるイタリア語のコミック・オペラにモーツァルトが曲をつけた3つ目の作品は《コシ・ファン・トゥッテCosi fan tutte》(1790年)であるが、この作品ほど哀れな運命をたどったものはない。《フィガロ》や《ドン・ジョヴァンニ》を手がけた劇場は、ほとんどが《コシ・ファン・トゥッテ》の試演も試みているが、20世紀以前には成功らしい成功を収めたところはない。唯一の例外は19世紀の初めのロンドンで、英国向けの改作版がかなりの当たりを取ったことである。モーツァルトがまだ目新しかった頃、すでにイギリスの大衆がモーツァルトを理解したということは、イギリス人にとって気持のいいことかもそれないが、忘れてならないのは、当時のイギリスにおけるモーツァルトのオペラというのは、カットだらけの上に、今ならだれでも顔をしかめるような改作を施したものだったということである。
《魔笛Die Zauberflöte》(1791年)はドイツ語による作品だった上に、最初から意識的に大衆を狙ったものであったから、初めはとまどっていた大衆の気持も、繰り返される公演のうちにほぐれてきて、その後は急速にドイツ国内の劇場に広まっていった。ドイツ以外ではやはりイギリスが他国より早くこのオペラに理解を示している。フランスでは、例によって自分流の改造を施すことから始めたし、イタリアでは早い時期に数回公演されただけで、モーツァルトのオペラは、どんなものでもイタリア向きではないという断定を受けてしまった。
《皇帝ティトゥスの慈悲La Clemenza di Tito》(1791年)は作られた時からすでに時代錯誤の作品で、古風な”王朝もの“オペラの生き残りとして、初演の時すでにその続演が危まれたものである。
~エドワード・J・デント/石井宏・春日秀道訳「モーツァルトのオペラ」(草思社)P9-11
1913年初版、1947年全面改訂のデントの古典的名著の最初の章「古典としてのモーツァルト」は上記のように受容の詳細が綴られており、興味深い。本物は時間を要するのだということだ。
しかしながら、いつの時代にあってもモーツァルトの音楽は人々を、特に耳の肥えた専門家を魅了していたことは、ピアノに編曲された諸曲を聴けば、自ずとわかる。
「魔笛」のパパゲーノのアリアによる変奏曲の軽やかな愉悦。
(モーツァルトがいかに旋律を生み出す天才であったか!)
モーツァルトと同時代者であるヨーゼフ・ゲリネク(1758-1825)は、チェコに生まれ、ウィーンで生涯の大半を過ごしたが、モーツァルトとは「ドン・ジョヴァンニ」初演の際に訪れたプラハで会っている。
ベートーヴェンの弟子でもあったカール・チェルニー(1791-1857)の「フィガロ」幻想曲の、(個人的には少々表面的で浅薄に感じられるが)大衆を意識したモーツァルトへの愛情豊かな響き。
そして、ベートーヴェンの「フィガロ」による変奏曲は、ウィーンに出て間もない楽聖の、やはり聴衆を意識したピアニストとして自身の華麗な技巧を披露せんとした、前年に亡くなったモーツァルトへのオマージュだ。
また、ジョルジュ・ビゼーによる「ドン・ジョヴァンニ」からの「お手をどうぞ」がまたシンプルで、可憐で美しい。
ちなみに、リストのモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」も、タールベルクによる「ラクリモーサ」も信仰を軸にした敬虔な心が反映された音楽で、僕はここにモーツァルトの内なる感謝と報恩を思う。
極めつけは、カツァリス自身による2曲。そもそもピアニスト自身がモーツァルトへの愛情をたっぷり注ぎ込んでいることが理解でき、これほど愉悦に満ちながら、モーツァルト作品の内側にある哀感を醸し出す演奏はなかなかなかろう。
超絶技巧派カツァリスの演奏は、大概外面的で深く心に残ることは少ないのだが、このアルバムは、大作曲家たちのモーツァルトへの心からの愛が刻印されている様子が如実に見え、素晴らしい。
カツァリスの「モーツァルティアーナ」(1992.2録音)を聴いて思ふ 