
2007年のベルリン・フィルとの交響曲第9番。
引き締まった造形は、かつてのアバドのもの、あるいはカラヤンのものとまた違った印象を与えてくれる。
ベルリン・フィルのシェフに内定した頃のラトルの言葉。
「サイモン、スピードを落として!」(ハリー、スローリー)。かつて、カルロ・マリア・ジュリーニはラトルに忠告した。しかしラトルが、前任者の多くのようにオーケストラに情熱を注ぐなら、これからも期待できる。
それはとてつもない挑戦で、非常に複雑で、極度のエネルギーを必要とします。しかしその代わりに、私も、エネルギーをもらえます。それは、私が奪われるよりも大きいことは確かです。このオーケストラは、楽団員それぞれが考え、迅速に行動します。じっと落ち着いてはいません。それは、ベルリン市が同じように機能しているからかもしれません、市はいまだ発展途上にあります。(・・・)、私が知る多くの他のオーケストラでは、団員に音楽へのモチベーションを与えなければなりませんが、ベルリン・フィルの場合、団員が常に全力を出し切っていることは明らかです。(・・・)ベルリン・フィルは、ホールの舞台に、群れた動物ではなくて、室内楽奏者として登場してくるのです。
ラトルが好んで引用するカラヤンの言葉がある。「鳥が、生まれつき、いかに囀るかは重要ではありません。経験を積んだあとに、いかに囀るかが重要なのです」。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P417-418
僕個人としてはアバド時代の様々な挑戦の方に軍配を上げたいところだが、ラトルのマーラーは、洗練されたオーケストラの響きを武器に、どちらかというとオーケストラにすべてを委ねた、個性を排した無類の逸品だと思う。
(指揮者の存在を忘れさせられる代物)
・マーラー:交響曲第9番ニ長調
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2007.10.24-27Live)
当初はオーケストラの個性の強さに辟易したであろうラトルの、ついに機が熟してのマーラーの交響曲第9番。
第1楽章アンダンテ・コモドの安定感。
(マーラーの音楽そのものに浸りたい時に、この演奏を聴くが良い)
(ここには生もなく、死もなく、ただひたすら音楽のみが自然発生的に紡がれるよう)
一方、第2楽章は、想いを込めて多少ためを作って、レントラー風の音楽が鳴らされる。
(何という愉悦だろう)
そして、第3楽章ロンド・ブルレスケの、マーラーならではの俗性が実に聖なる響きと化す様子に、ラトルが思念や感情を排した解釈を徹底させようとしていることを知る。
さらに、終楽章アダージョは何と冷徹で無機的な響きを保つことか!
各楽器の分離が良く、全体最適、部分最適が見事に結晶化したクリアな音像、造形に感激する。「死に絶えるように」と標記されたコーダの圧倒的静寂は、おそらく録音に入り切っていないと思われる。こういう音楽は実演に触れない限り真意は図れない。

