オジェー ゲリーゼン ミュンヘン・フィル合唱団 ミュンヘン・バッハ合唱団 チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル ブラームス ドイツ・レクイエム作品45(1981.7.2Live)

終始抑制された、文字通り「魂を鎮める」演奏。
丁寧な音作りは、セルジュ・チェリビダッケの真面目。
音楽は見事に沈潜する。その上で、極めて透明であり、これほど大らかで、人の心を救うレクイエムがあるのかと思わせるほど。

チェリビダッケがミュンヘン・フィルの音楽監督として全盛を誇る以前の、就任間もない頃の奇蹟的名演奏。このときチェリビダッケの魂は、ブラームスの魂と一体になっていたのではないかと思うくらい。

「ブラームス博士」私はたずねた。「米国には“万人救済派”と呼ばれる教派があります。この教派に属する者は、人類はすべて、誤った行為が公正に罰された後、最終的には救われると教えています。この教えを信じますか?」
「そんな教理は聖書的に見て正当化されない。最も信頼に足る導き手は誰か? あの究極の問いにふさわしい最高の権威は? それは二人といない、かのナザレ人だ。この地にかつて足跡を残した他のいかなる人物よりも、このことについて多くを知っていた。この世で最も偉大な宗教預言者だったからだ。イエス自身、〈マタイ〉7.13と14であいまいな言葉は一切使わずにこう言い表している—『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない』
ここには、無用な神学用語など一切ない」。

アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P83-84

ここには「道」を得た者にだけわかる「事実」がある。
確かにブラームスはその事が分っていたのだと思う。
しかし、時未だ熟せず。早過ぎたのだ(ブラームスは「道」を得ることができなかった)。
師ロベルト・シューマンの死をきっかけとし、そして最愛の母の死をさらなる動機づけとして創作されたといわれる「ドイツ・レクイエム」はブラームスの作品群の中でも傑作の一つだ。

ちなみに、アンドレ・ジッドが描いた小説においても、ジェロームを思慕するアリサが「狭き門」を通って神へと進もうとする聖と俗の間で苦悩する様子が描かれているが、彼女も、もちろんジッド自身も「道」を得ることは叶わなかった。
(その意味で、僕たちは何と幸運なのだろう!)

・ブラームス:ドイツ・レクイエム作品45(1856-68)
アーリーン・オジェー(ソプラノ)
フランツ・ゲリーゼン(バリトン)
ミュンヘン・フィルハーモニー合唱団
ミュンヘン・バッハ合唱団団員(ヨーゼフ・シュミットフーバー合唱指揮)
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1981.7.2Live)

ミュンヘンはルカ教会でのライヴ録音。
第1曲の歌詞は、「マタイ福音書第5章第4節」からの「悲しんでいる人は幸いである。彼らは慰められるであろう」と、詩篇第126篇5節の「涙をもって種まく者は喜びの声をもって刈りとる」、同第6節「種をたずさえ、涙を出してゆく者は、束をたずさえ、喜びの声を上げて帰ってくるであろう」の3句により成立している。
今生の不条理と哀切は、この世で自己を明らかにし、悟るためのきっかけなのだと教えてくれる。チェリビダッケの指揮は相変わらず深沈として遅いが、しかし強力ない信仰心が刻まれており、冒頭から泣きたくなるくらい感動的だ。

そして、最も早く作曲された第2曲の葬送行進曲は、40年前、サヴァリッシュ盤で聴いて、実にしみじみと心を打たれた楽章だけれど、ここでのチェリビダッケの棒は見事に洗練されており、一層の悲しみを喚起するもので、とても美しい。

また、レクイエムの核心となる第3曲についても、バリトンの苦悩に溢れる歌唱を超え、合唱が「見よ、あなたは私の日をつかの間とされました。私の一生はあなたの前では無に等しいのです」とくり返すシーンは心に響く。

それを受けての安寧の第4曲の、何と天国的な響きであることか!
(ここでのチェリビダッケの指揮は、まったく自然体)

さらに、「ヨハネ福音書」第16章第22節による第5曲「このように、あなたがたも今は不安がある」は、苦悩や不安が現世だけのものであることを悟れとでも言わんばかりにソプラノ独唱が、時に絶叫あり、時に弱音で優しく歌う。(そもそも不安など幻想に過ぎないのだと言わんばかりに)

14分半近くに及ぶ第6曲は、本演奏の白眉だろう。
特に、バリトン独唱による「ここであなたがたに奥義を伝えよう。私たちすべては眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、瞬く間に一瞬にして変えられる」(「コリント人への第1の手紙」第15章51節)から合唱による「そのとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利に呑まれてしまった』。」(同54節)あたりのクライマックスこそヨハネス・ブラームスがこの作品に託した深層であり、ゆっくりと丁寧に解釈するチェリビダッケの信仰の極致であろう。

終曲はいともたやすく静寂に回帰し、すべてが浄化に至る道を描く。
死とは終わりではなく、また恐怖でもないことを知ろう。

ベルトラン・ド・ビリー指揮新日本フィル ジェイド第607回定期演奏会

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