チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル ルディ・シュテファン 管弦楽のための音楽(1949.5.9録音)

20世紀には、それまでになかった死に方をする作曲家(だけではないが)が登場する。戦争による死である。ユダヤ人作曲家たちのようにナチの強制収容所送りになったり、(戦争ではないが)スターリンに粛清された作曲家ではなく、戦争そのものによって亡くなった作曲家が20世紀には何人もいた。グラナドスはアメリカからの帰途で船がドイツ軍のUボートの餌食になった。マニャールは自宅に侵入してきたドイツ兵に抵抗し、自ら家に火を放って焼死した。第二次世界大戦を辛うじて生きのびたウェーベルンは、終戦直後に駐屯アメリカ兵に射殺された。
作曲家の「戦死」も20世紀特有だ。民間人が国を護るために派兵されるのは基本的にフランス革命以降の近代戦のあり方で、ことに戦争が「総力戦」の様相を強めてきた20世紀には、作曲家も前線に送られるようになったからである。とても戦力になりそうもないシェーンベルクやメシアンも派兵されていたことは有名だろう。日本人作曲家でも大沼哲や草川宏などが「戦死者」として知られるが、第二次世界大戦の前線で亡くなった作曲家としてはフランスのジャン・アランがよく知られ、それに先立つ第一次世界大戦中の1915年に東部戦線で敵弾に斃れたのがルディ・シュテファンであった。

(長木誠司「作曲家ルディ・シュテファンの肖像」)
~読売日本交響楽団 月刊オーケストラ(2026年7月号)

この「総力戦」という恐るべき戦争の直前に「弥勒の時代」が始まっていることに天の按配を思う。

僕は、迂闊にもこれまでルディ・シュテファンという作曲家を知らなかった。
読響の発行する「月刊オーケストラ」の特集記事を読み、興味を持った僕は、この夭折の作曲家についていろいろ調べた。

何と、チェリビダッケの、ベルリン・フィルとの若き日のセッション録音があることを知り、僕は繰り返し聴いた。ちょうどベルリンでのチェリビダッケ熱がおさまってきた頃のことだ。様々なことに興味を持ち、首を突っ込むチェリビダッケにとってベルリンがすべてではなかったと見える。

1949年、ルーマニア人指揮者はウィーン、フランス、イタリアで客演する。1950/51年度のシーズンには南米で成功を収め、その翌年には同地で圧倒的なダ・カーポ(再登場)。
~クラウス・ウムバッハ/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P116

チェリビダッケは音楽を創造することが心から好きだったのだと思う。
また、自身が想像する音響を再現するために徹底的にリハーサルを要求したのだと思う。

1949年1月にチェリビダッケはツェーレンドルフの国際音楽研究所での指揮講座を引き受けた。彼の教育への関心が再び頭をもち上げてきたのだろう。参加希望者が殺到した。それに対してベルリン・フィルを指揮する意欲は衰えたようだった。おまけにトップクラスの指揮者の客演回数が増える傾向にあったので、チェリビダッケ自身は常時出演する必要もなくなっていた。姿を見せる回数が少し減った。するとベルリンの音楽監視人どもはそれをすぐにまた歪曲して伝えた。「オーケストラの芸術生活は倦怠気味」と『ターゲスシュピーゲル』紙が反応。もっとひどい叱責は「チェリビダッケの退歩」という見出しで始まった。「彼は瞬く間の成功に奢って、徹底したリハーサルのために時間をさかなくなってしまった」。
リハーサル狂で熱烈なオーケストラ教育者のチェリビダッケにとってこれは実にいやな言葉、恐らくこれまでで一番いやな言葉であったにちがいない。この後はベルリンの世論からこれまでのような異口同音の賞讃を期待することはできなかった。彼の輝いていたイメージは傷がつき、光沢を失った。1949/50年度シーズンには30回しかベルリン・フィルの前に立っていない。1950/51年度には9回。1951/52年度には6回。分割払いの別れ。

~同上書P118

他者評価ほど怪しいものはない。
そんなものは「幻想」に過ぎないのだ。
しかし、そういうときにこそやっかみや妬みがある。現実とはそんなものだ。
(その意味で、チェリビダッケは世間から干されてしまったのだ)

そんな状況にあっても、僕はこの頃のベルリン・フィルとの素晴らしさを痛感する。

・ルディ・シュテファン:管弦楽のための音楽(1912)
セルジュ・チェリビダッケ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1949.5.9録音)

ここには「トリスタン」の影響が明らかだが、官能というより「死」の様相に近い響きが、戦死した作曲家の、自身への鎮魂曲であるかのように響くのだから興味深い。
(もちろん作曲年代から考えてそんなはずはないのだが)
チェリビダッケの指揮にも異様な熱が入る。
晩年のスタイルとは大きく異なる、トスカニーニを髣髴とさせる熱気と燃焼に言葉がない。

異国人指揮者は義務を果たし終えた。叙勲式の24時間後にチェリビダッケは同じプログラムを繰り返す。1954年11月29日の夕べ。その頭にあるのはある予感かそれとも期待? 彼がベルリン・フィルの前に立つのはこれが最後となり、その後38年間の空白となった。
1954年11月30日ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが他界。12月13日、オーケストラ・メンバーとベルリン・フィルのインテンダント、ゲルハルト・ヴェスターマンは多数決でゲルベルト・フォン・カラヤンを新しい(そして後には終身の)首席指揮者に選出。
チェリビダッケ退場。42歳。414回のベルリン・フィルの演奏会で指揮した。その数は楽団創立者ハンス・フォン・ビューローのそれを上回る。新世界へと去って行くチェリビダッケの背に石が飛ぶ。もともと彼を心よく思っていなかったヴェスターマンはティブルティウスに宛てた報告書の中で、この一筋縄ではいかなかった指揮者を無能者と決めつけた。あの者はドイツ人ではなく、古典にもロマン派にもあまり精通しているとはいえないし、外国での評価ももう一つであると。

~同上書P125

チェリビダッケに政治力がなかったといえばそれまでだが、巨木に迎合することのなかったチェリビダッケはまさに大物であり、真の芸術家だったといえよう。

それは、死後、公開されてゆく数々の実況録音、あるいは古いセッション録音の素晴らしさを聴けばわかる。

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