
カラヤン2度目のライヴ録音は、想像以上に劇的であり、激しい演奏だ。
それでいてカラヤンらしい外面の練磨は健在で、ライヴ収録であるにもかかわらず、極めて美しく、ゆっくり落ち着いてマーラーの音楽を堪能できる。
17年後、同じくベルリン芸術週間にてアバドがマーラーの同曲を振った。ベルリン・フィルの機能美を最大限に生かした名演奏だが、その方法と聴後の印象は両者で全く異なる。カラヤンが「動」だとするならアバドが「静」、あるいはカラヤンが「色」だとするならアバドは「空」。聖俗入り乱れる、光と影の象徴のような音楽が、どちらの側面を強調するかでこうも違ってくるのだから面白い。
アバドは、この後、まもなく病に倒れる。
そのことを予兆するかのような静かで、冷静な響きに、僕は初めて聴いたときから虜になった。(賛否はあるのだが)
マスコミがアバドを標的にしはじめただけでなく、聴衆もますます彼から気持ちが離れて行った。彼は楽譜にはまったく「忠実」である。しかしそれは、他の高名な指揮者とあまり違いがないという意味でもある。ある記者が書くように、高水準ではあるが特徴がないということだ。聴衆は、時にはリスクを冒すような天才を求めていた—たとえそれが異常であっても、冒険が失敗しても。アバドはフルトヴェングラーのように音楽に没頭できる。だが人は、他と間違えようもない、爆発的で、とてつもなく、圧倒的なものを求めていた。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P376
世間はとにかく他と比較してあら捜しをするものだ。
(特に前任者との比較)
(カラヤンが就任したときもそうだった)
アバドは、ベルリン・フィルとの最初のニューヨーク・ツアーを、散々に貶されている。
すでにアバドとベルリン・フィルによる初めてのニューヨーク・ツアーで、マーラーの第5番の最初、トランペットの入りを失敗していた。ニューヨーク・タイムズは、「カラヤンの有名なマシンの駆動装置を改めてピンと張りつめる必要があるほど、木管と金管楽器のテクニックは気が抜けて」おり、「仰々しくもったいぶった」マーラーであると報じた。
~同上書P376
それから10年を経てのマーラーは絶品だ。
雪、愛、マーラー ・マーラー:交響曲第9番ニ長調
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1999.9Live)
基本、音楽は淡々と進む。
余分な思念が削られている分、「面白くない」と勘違いする人もいよう。
しかし、(大袈裟だが)無心の心の、最高の境地の体現であるように僕には思われる。
例えば、第3楽章ロンド・ブルレスケあたりで時折咆哮する瞬間も決して煩くなく、音楽そのものの要求通りにコントロールされた音に翻弄されることなく、安心して心身を委ねることができるのだからすごい。
続く終楽章アダージョは白眉。
無心で、無駄がなければ、音楽は自ずと透明感を増す。
先の先までがはっきりと見え、一切の遅滞なく、ゆるやかながら大いなる推進力の下、音楽は敢然と歩みを進める。
光と闇の対比を表現する晩年のマーラーの音楽にあって、これほど陰陽が統合された演奏が他にあるのかと思わせるほど。音楽は一貫して生命の尊さを示す。
(「死」を意識させる瞬間はないと個人的に思う)
(ここにあるのは生きる希望と憧れだ、それも前向きな)
(そう、それこそ再生の音楽だといえまいか)

