モントゥー指揮ロンドン響 ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調作品67ほか(1959.5録音)

老練ながら推進力抜群のベートーヴェン。
これほどの生命力と熱量は、明快なアタックと流れるような旋律の対比の成せる業だろうか。

だが、こうして改めてきいてみると、モントゥのベートーヴェンは実にすばらしい。精妙さと率直さが、きず一つない演奏の中で、こんなに見事に同居しているということは、モントゥの指揮の異常な高さを証明している。
「吉田秀和全集5 指揮者について」(白水社)P149

古い論評だが、吉田さんのモントゥー評は実に的確だ。

こういうことになるのは、個人の好みではなくて、様式上の差なのである。別のわかりやすい例でいえば、ちょうど、美術のうえで、ゴシックとかルネサンスとかのスタイルの差があり、たとえばシャルトルのカテドラルのあの前面の壁にある浮き彫りの像たちが、やたらと細長くできていて、頭部や足とのバランスからいって、ミケランジェロのダヴィデやモーゼの像のそれとまるでちがうのをさして、前者はバランスが悪く、ミケランジェロにいたって、彫刻は真のプロポーションを実現したといってみたり、あるいはゴシックの壁面に遠近法的な考え方が出ていないからといって、それを後世の絵画より真実味の劣ったものといったりするのがまちがいなように、モントゥのヴァーグナーやベートーヴェンをもって、本物ではないというのは、二重にまちがいなのである。その一つは、ベートーヴェンやヴァーグナーについて、たった一つの正しい解釈があるというのがすでにまちがいだからだし、その二は、モントゥの解釈とフルトヴェングラーの解釈は、ともに、二つのまったく別々な様式に属し、その様式の枠内で、両方とも、非常に高度なものを達成しているからである。
~同上書P150-151

それは何もベートーヴェンやワーグナーに限ったことではない。
あらゆる音楽に、たった一つの決まった解釈などないのは当然のことだ。
(相対世界において人間の創造したものに絶対はない)
(陰陽芸術の最たる音楽においてなおさら)

ハ短調交響曲における陰から陽に至るプロセスの、まったく無駄のない完璧なベートーヴェンの造形に感動する。そして、その音楽にこれほどの生き生きとした命を吹き込むモントゥーの様式にもあらためて心動く。

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67
・劇音楽「エグモント」作品84から序曲
ピエール・モントゥー指揮ロンドン交響楽団(1959.5.23-27録音)

同日に収録された「エグモント」序曲においても、その表現の若々しさは変わらない。
モントゥーの思念は、ベートーヴェンのそれと同期するかのように、時間と空間を超え、ドラマティックかつデモーニッシュに音楽を響かせる(もちろんフルトヴェングラーの様式とは違った形で)。

しかしベートーヴェンがベッリーニほど多くの旋律を書かなかったのは、決して能力の欠如によるものではなく、旋律からのみ成り立つのではない世界、その多彩な豊富さと関わり合ったからである。むしろベートーヴェンこそ—他の作曲家、モーツァルトやバッハにもまさって—およそ各種の音楽的な構造(動機、主題、反復進行など)のみならず、個々の旋律をも正しく位置づけた人なのである。ベートーヴェンの音楽は、統一的であると同時に、変化にも富んでいる。男性的なものと女性的なもの、堅固さと柔軟さ、最小の部分と遠大な地平、すべてがここでは絶妙な均整のうちに統合されている。それゆえ、なかんずくベートーヴェンは偉大な「立法者」であった。なぜなら彼にとって手法の上で重きをなすものは、バッハに見られる対位法的な要素でもなければ、モーツァルトやシューベルトの旋律的な要素、あるいはヴァーグナーに見られる感性的な調和、荘重さ、反語的なものでもなく、むしろ一つの「合金」に融合されたこれらすべての要素であったからである。しかも注目すべきことに、この合金は、これを通して高度の鋳造された自然性を獲得しているように思われる。
「ベートーヴェンと私たち」(1951年)
フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音と言葉」(白水社)P252

相対の世界の中で絶対を創造せんとしたベートーヴェンが、「楽聖」と称された理由をフルトヴェングラーが見事に言語化したように僕は思う。
そして、この完璧なる音楽を再生するに方法は五万とあるのだ。

フルトヴェングラーは素晴らしいが絶対ではない。
モントゥーの振るハ短調交響曲も素晴らしい。

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