
我が故郷の村には「山の神」と称する女性不可侵の土地がある。
子どもの頃、父に連れられて正月に必ずお詣りしていたが、いつの間にか詣でることはなくなった。現代社会の恥部のひとつとでもいうのか、若者はもはやそういう信仰に価する場所には行かなくなった。人々は大事なものを忘れているように思う。
第7交響曲の双生児。
ただし、神々を描こうとするゆえかどうなのか、より晦渋で深遠な音調を醸す。
「タピオラ」とは、森の神タピオが支配する深い森の領域。
ほぼ後半生、作曲の筆を折ったシベリウスの最後の管弦楽作品は漆黒の音響にありながら、神々の光を音化する傑作。こういう音楽を振らせたらカラヤンの右に出る者はいまい。
60年代の録音はもちろん素晴らしいが、僕は新しい方の録音を推す。
半世紀前の、全盛期のカラヤンの屈指の棒は、光と闇の対比を見事に表現する。
大宇宙の森厳さをこれほどまでに美しく、そして荘厳に描き出した演奏が他にあろうか。
この時期のベルリン・フィルの圧倒的音響と、個々の奏者の筆舌に尽くし難い技量の成せる業だろう、何という静謐さ、何という神秘さ、何という威容、すべてが完璧だ。
見落とされがちだが、カラヤンは優秀なシベリウス指揮者でもある。このフィンランドの作曲家自身が、カラヤンのことを、「私が心に思い描く通りに演奏する唯一の指揮者」と証明してくれている。カラヤンによるシベリウスの交響曲第5番のレコードは、正真正銘の模範的録音とみなされたので、1965年、ベルリン・フィルとともにシベリウス生誕100年を記念する音楽祭に、カラヤンはヘルシンキを訪問している。指揮者はシベリウスの家族と会い、彼の家を訪れ、花輪を墓に供えた。第4番を演奏したあと、「これ以上素晴らしい演奏はできない」とカラヤンは言ったが、これもその年の5月にレコードになっている。コンサート会場の音響はそれほど良くなかったが、彼は別れぎわに言った。「もう一度我々に来てほしいのでしたら、手紙を書いてくださるだけで結構ですよ、いつでも参りますから」。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P273-274


