ヤノフスキ指揮SKDのワーグナー「神々の黄昏」(1983.3&4録音)を聴いて思ふ

リヒャルト・ワーグナーの絶筆「人間性における女性的なものについて」(1883)の最後の文字は「愛—悲劇」である。この文字を残して、ついに彼は息絶えた(最後の力を振り絞ったのだろうか、終わりにペンが紙の上を斜めに走った痕が残っているそうだ)。

もはや僕たちは、ワーグナーが何を言わんとしていたのか想像するしかないのだが、それは、「神々の黄昏」終幕でヴァルハラ城が炎上する中にブリュンヒルデが身を投じ、続いてライン河が氾濫するという、まさに人類の、否、世界の終末を見事に楽劇化した彼の、真の愛こそが悲劇を招くことのない、人類救済の最後の手段であることを仄めかす、息も絶え絶えに書き下ろした言葉だったのではないかと思えるのである。

「愛—悲劇」という文字の直前の件はこうだ。

仏教説話「勝利者たち」のきわ立ってすばらしい点は、解脱を成就した仏陀が最終的には女性を一門に受け入れることにある。それでも女性の解放は、発作的な忘我の高揚においてのみ進行する。
三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P391

彌勒降臨の世の、女性性の時代がいずれ到来することを予感してなのか、そして、(キリスト教であれ仏教であれ)既存の宗教が世界を司る世においては、真の意味での一体はないことを嘆いてなのか、「悲劇」という文字が鬼気迫る。

三光長治さんが「あとがき 晩年の思想」に引用されたアドルノの言葉「ワーグナーの音楽には『破局の感情』が脈打っている」という言葉を裏返すと、やはりワーグナーは破滅を避けるために人類があるべき姿を想定し、自身の作品を通じて希求し続けたのだろうとも読める。たぶん、たぶんだけれど、彼の未来的思考は早過ぎたのだ。

マレク・ヤノフスキの「神々の黄昏」(ベルリン放送響との新録音も、東京・春・音楽祭での実演も、残念ながら僕は聴いていない)。
30余年前、随分話題になった録音を今更ながら傾聴すると、歌手陣の素晴らしさや録音の優秀さ以上に、若きヤノフスキの創造する生命力溢れる音楽の造形に畏怖の念を抱きたくなる。

・ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」
ルネ・コロ(ジークフリート、テノール)
ジャニーヌ・アルトマイヤー(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
ジークムント・ニムスゲルン(アルベリヒ、バス)
マッティ・サルミネン(ハーゲン、バス)
ノーマ・シャープ(グートルーネ、ソプラノ)
ハンス・ギュンター・ネッカー(グンター、バス・バリトン)
オルトルン・ヴェンケル(ヴァルトラウテ、コントラルト)
ルチア・ポップ(ヴォークリンデ、ソプラノ)
ウタ・プリーヴ(ウェルグンテ、アルト)
ハンナ・シュヴァルツ(フロースヒルデ、アルト)
アンネ・イェヴァング(第1のノルン、アルト)
ダフネ・エヴァンゲラトス(第2のノルン、メゾソプラノ)
ルース・ファルコン(第3のノルン、ソプラノ)
ライプツィヒ放送合唱団
ドレスデン国立歌劇場合唱団
マレク・ヤノフスキ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1983.3&4録音)

何より恐れを知らぬジークフリート同様、果敢にワーグナーに挑戦するヤノフスキの姿勢に脱帽。ドレスデンのいぶし銀の音が美しい。
音楽は揺れ、音は弾け、爆発し、また沈潜する(例えば、メリハリの効いた管弦楽による「葬送行進曲」に心奪われる)。ちなみに、アルトマイヤーのブリュンヒルデは、少々現実的な声で、情感のこもった歌唱だが、興醒めな瞬間もある。ただし、「自己犠牲」に至っては、そういう声質だからこその苦悩の表出が逆に見事で、最後の管弦楽による「愛の救済」共々、ワーグナー畢生の大作の大詰めを心から堪能できる。

 

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