
人間の欲のなれの果て。
慈しみや智慧が欠ける人の脳内に浮かび上がるのが根拠のない不安であろう。
欲が深ければ深いほど不安も強くなる。
悲劇のトリガーとなるのは何にせよ欲だ。(谷が欠けるとは、漢字はよくできている)
殺してでも欲しいもの、それが王の座。権力に溺れてしまったがゆえの結末。
ウィリアム・シェイクスピアの悲劇に音楽を付した、ヴェルディ初期の傑作。
《マクベス》におけるメルカダンテ路線への乗り換えは、一応の成功をみる。特に“ンパッパ”を飾る弦の半音階昇降の手法には目を見張るものがある。こうした伝統的手法の複雑化は、まさにメルカダンテの求めていた方向で、ヴェルディの先駆者であったのに、ここでヴェルディに追い抜かれてしまう。メルカダンテはこの後、《ヴィルジニアVirginia》(1850)等の美しい作品を残しているが、今後は、かえってヴェルディから影響を受けるようになっていく。《マクベス》は、ヴェルディがメルカダンテを追い抜いた記念碑的作品であったのであり、これがヴェルディにおける《マクベス》の真の意義であるといえよう。
~永竹由幸「ヴェルディのオペラ 全作品の魅力を探る」(音楽之友社)P149-150
サヴェリオ・メルカダンテ(1795-1870)は、ジャコモ・マイアベーアの影響を受けたイタリアの作曲家だが、実は僕も聴いたことがなかった(若きジュゼッペ・ヴェルディが影響を受けていたなら少し聴いて勉強してみようと思う)。
原作でのマクベスの怖れ慄きながらの良心の呟き。
やってしまって、それで事が済むものなら、早くやってしまったほうがよい。暗殺の一網で万事が片附き、引きあげた手もとに大きな宝が残るなら、この一撃がすべてで、それだけで終りになるものなら・・・あの世のことは頼まぬ、ただ時の浅瀬のこちら側で、それですべてが済むものなら、先ゆきのことなど、誰が構っておられるものか。だが、こういうことは、かならず現世で裁きが来る—誰にでもよい、血なまぐさい悪事を唆してみろ、因果は逆にめぐって、元兇を倒すのだ。この公平無私の裁きの手は、毒酒の杯を、きっとそれを盛った奴の唇に押しつけて来る。
~シェイクスピア作/福田恒存訳「マクベス」(新潮文庫)P32
しかし、そこにマクベス夫人が現れる。
やりそこなう? 勇気をしぼりだすのです。やりそこなうものですか。王が眠ったら、ええ、どうせ今夜は旅の疲れで、ぐっすり寝こんでしまうでしょう、二人のお附きは大丈夫、葡萄酒をどんどん勧めて酔いつぶしてやる、脳髄の番人、記憶の招待は朦朧となり、理性の器も蒸溜器同然、挙句の果てには、べろべろに酔って豚のように眠りこけてしまう、そうなれば、護衛のないダンカン、二人でどうにでも出来ましょう? 大逆の罪も、そのやくざ頭のお附きになすりつけてやったらよい、どうしてそれが出来ないと?
~同上書P35
典型的なファム・ファタルに愕然とする。
昔も今も、こういうカップルは多いと推察する。
しかしながら、特に夫婦の縁は「恩・仇・敵」といい、仇や敵が8割だというのだから仕方あるまい。
ちなみに、ピアーヴェとマッフェイによる台本では、こういう心理の描写はもっと簡潔に、端的に語られている。
それでも犯した殺人という罪はちゃらにはならない。
本人の自覚通り必ず裁きが来るのである。
有名な第4幕、マクベス夫人の夢遊の場。
数多の殺人幇助の罪の意識から、彼女は夜な夜な無意識に起きて、過去の血痕を洗い流そうとする、傑作場面。ここでのニルソンのドスの利いた歌唱は、絶品!
ニルソンは、マクベス夫人でデビューを果たしたが、当時の新聞には次のようにある。
・・・ある朝、目を覚ますと、有名になっていた。それは誰でも味わえるわけではない幸運だ・・・。マクベス夫人でデビューし、金曜日の新聞で称賛を浴びて以来、この若手歌手は、誇張ではなくこうした幸運な人々の一人に数えられる・・・。
「スヴェンスカ・ドグブローデト新聞」
~ビルギット・ニルソン/市原和子訳「ビルギット・ニルソン オペラに捧げた生涯」(春秋社)P95
そして、ニルソン自身はオペラ歌手としての学びを深めていった。
それまで彼(ハンス・ブッシュ)は主にモーツァルトのオペラを演出していたせいか、人間を人形のように扱う傾向があり、音楽で強調されているところはすべて動きで表わそうとした。けれど、次第にキャリアを積んでいくうちに、マクベス夫人の悪魔のような邪悪さをいちいち動作で強調する必要はないことを私は学んだ。
~同上書P91-92
音楽そのもので、歌唱そのものでいかに勝負できるか。
それこそヴェルディ・オペラの本懐だと思う。
ヴェルディは、若い頃からシェイクスピアに傾倒したが、「リア王」がオペラ化されなかったことが返す返すも残念。
初演は1847年3月14日、フィレンツェのペルゴラ劇場。
大成功を収めたという。



岡本浩和さま
このシッパース指揮の『マクベス』、残念ながら未入手ですので、何ともコメント致しかねるのが、歯がゆい限りでございます。当時のDeccaレーベルの販売窓口のキング・レコードから、SLX3-37の番号でリリースされて以降、SLC-7000番台やSLA-7500番台での再発売は行われず、輸入盤での店頭在庫にも巡り会えず、いわば私にとりまして、幻のディスクとなっております。
手許の盤は、ガルデッリ指揮ロンドン・フィルと、スリオティス、フィッシャー・ディースカウ、パヴァロッティ他の新盤(SLC-7168〜70)でございます。アバードにシャイー、これら当時気鋭の指揮者の盤は未聴と言う怠慢ぶりでありますけれども、タッデイの外題役にニルソンの夫人役の顔合わせは、このシッパース盤の大きな聴きどころで、ありましょうね。
雑文長々と、申し訳ございません。
>高岡拓也様
>いわば私にとりまして、幻のディスクとなっております。
あ、そうでしたか!
これまでのやり取りから、高岡様はアナログ盤の当時から愛聴されているとばかり想像しておりました。僕は長らくアバド盤を聴いておりましたが、このシッパース盤は、おっしゃるようにタッデイとニルソンが聴きどころです。
ちなみに、僕もこの録音を初めて聴いたのはほんの数年前のことで、何年か前にニルソンのコンプリート・ボックスを手に入れたときです。うっかり聴かずに人生を終えてしまったかもしれません。(笑)
ぜひ機会ありましたら聴いてみてください。