
風車を巨人と間違えて挑んで、逆に跳ね飛ばされるという間抜け。
しかし、盗賊を改心させ、奪ったネックレスまで取り戻すことができた純真さ、あるいは信仰心こそドン・キショット(ドン・キホーテ)の本懐であり、ここでのマスネの音楽は、晩年の熟達した筆による逸品だ。
ミシェル・プラッソンは、フランス歌劇を振らせると右に出るものがいないほど上手い。
若い頃から、絢爛豪華なフランスものを僕は今一つ得意としなかったが、プラッソンに出会い、考えが変わった。
クロード・ドビュッシーは同時代を生きたものとしてマスネを冷静に称賛する。
マスネは、現代の音楽家たちのなかで現実にもっとも愛されたひとだった。さらにまさしくマスネへのこの愛情こそ音楽の世界で彼が占有しつづけた特別な位置を、その力によって彼にあたえたものであった。
彼の同僚たちは、文字どおり天賦の才である人の気に入られるこの能力を、こころよく許すことができなかった。ほんとうのことを言うと、この才能は、とくに芸術の場合、絶対に必要といったものではない。そして別の例をあげれば、ヨーハン・ゼバスティアン・バッハが、マスネのような意味で人の気に入られはしなかったことは、確かである。流行婦人衣裳店の女の子が『マタイ受難曲』を口ずさんでいた、なんて話をきいたことがありますか? まさか。ところが朝、『マノン』や『ウェルテル』をうたいながら彼女たちが目をさますという話であれば、誰でも知っている。勘違いなさらぬように、そこにこそ、仲間たちの少々無理した敬意のほかには心をあたためてくれるものを持たない、かの偉大な潔癖家たちが、一人ならずひそかに羨んでいる、魅力的な栄光がある。
「マスネ」
~平島正郎訳「ドビュッシー音楽論集 反好事家八分音符氏」(岩波文庫)P102-103
メロディ・メイカーたるジュール・マスネの天才を、ドビュッシーをすら羨望の的にさせた証左だろう。歌劇「ドン・キショット」も、どの瞬間もあまりに美しい。
第2幕「広大な田園、夜明け」の風車のシーン、あるいは、第4幕「ドゥルシネの家の中庭でのパーティー」すべて、そしてドン・キショットの死を扱う第5幕「山間の小径、夜」と、人間の情感を揺さぶる音楽の魔力に釘付けになる。
第1幕の前奏曲、そして、第5幕直前の間奏曲、管弦楽による音楽はいずれも示唆に富み、聴けば聴くほど、ドビュッシーの指摘通りだと思う。
どの瞬間も美しいメロディに溢れ、知らずとも虜になる。
第5幕は、ドン・キショット(ドン・キホーテ)の死の場面であり、ここでのファン・ダムのモノローグは情感こもり(サンチョ・パンサの忠心への感謝)、実に素晴らしい。
人生を謳歌した男の最期のシーンに感無量。
あるいは、第4幕でのギターを弾きながらのドゥルシネのアリア「愛の喜びだけを思い描こう」もスペイン情緒に溢れ、美しい。
マスネは、美しい女性の聴き手があおぐ扇の動きの犠牲になったらしい。それは彼の栄光をたたえて実に長いこと揺れていた。彼は、そのかぐわしい羽ばたきを、何としてでもわが名の上にひきとどめておこうとのぞんだ。不幸にしてそれは、蝶のひとむれを飼いならそうとのぞむことであった・・・おそらく彼は忍耐を欠いただけであり、〈沈黙〉の価値をよく知らなかったのだろう・・・われわれの音楽に彼が影響をあたえたことは、あきらかであるが、彼に多くを負うている或る人びとは、それをすんなり認めたがらない。認めぬことによって、彼らは偽善的に自分を弁護する・・・下劣である!
「オペラ座」
~同上書P83
いつの時代も妬みと嫉みの嵐。人間の欲望とは何と恐ろしいものだろう。

