
最晩年の、グスタフ・マーラーはリヒャルト・ワーグナーの影響から、いわゆる宗教から脱却せんとしていたようにも思われる。彼の思想は、ベートーヴェンなど先達と同じく東洋世界に意識が向けられていた(のではなかろうか)。イエス・キリストへの帰依から仏陀への帰依へ。そんな妄想を僕は内心膨らませている。
第二部は親鸞の自己告白である。
五濁悪時の群生海 如来如実の言を信ずべし
よく一念喜愛の心を発すれば 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり
凡聖逆謗斉しく回入すれば 衆水、海に入りて一味なるがごとし
摂取の心光つねに照護したまふ すでによく無明の闇を破すといへども
貪愛瞋憎の雲霧 常に真実信心の天に覆へり
譬えば日光の雲霧に覆はれるども 雲霧の下明かにして闇なきがごとし
信を獲て見て敬ひ大きに慶ぶ人は 即ち横に五悪趣を超截す
一切善悪の凡夫人 如来の弘誓願を聞信すれば
仏、広大勝解の者と言へり この人を分陀利華と名づく
弥陀仏の本願念仏は 邪見憍慢、悪衆生
信楽受持すること、甚だ以て難し 難の中の難、これに過ぎたるはなし
ここに光の詞と闇の詞が交互に出てくることに注意を促したい。「五濁悪時の群生海」—これは闇である。「如来如実の言を信ずべし」—これは光である。無限に深い闇がそのまま光になる。「よく一念喜愛の心を発すれば 煩悩を断ぜずして涅槃をえるなり 凡聖逆謗斉しく回入すれば 衆水、海に入りて一味なるがごとし」—というのは、煩悩をもっていた人間がそのまま救われる。闇がそのまま光になるという光の讃美である。しかし、次がまた闇の深さの自覚になる。「摂取の心光つねに照護したまふ すでによく無明の闇を破すといへども 貪愛瞋憎の雲霧 常に真実信心の天に覆へり」—つまり、こういうふうに阿弥陀仏は自分を救ってくれるはずなのに、それにもかかわらず自分の心の中には欲張り、愛、怒り、憎しみの心がいっぱいあって、それが真実の信仰を覆い隠してしまう。それはちょうど太陽が雲や霧によって覆われているようなものだ。しかし、そうはいいながら、すぐにまた「雲霧の下明かにして闇なきがごとし」と、光はやはり闇を征服するという光の讃美の言葉に変わるのである。この光と闇の交錯—光があると思えば、また闇が押し寄せ、闇が押し寄せたと思うと、光があらわれてまた闇を消してしまう。これが親鸞の信仰の世界なのである。そして親鸞は魂の底でこのような闇を払って、純粋な光の信仰に生きよ、と自らに命ずる。そして最後に「信楽受持すること、甚だ以て難し 難の中の難、これに過ぎなるはなし」と結ぶのである。この信仰は難のうちの難だと、彼は光を讃美しながら信仰の困難さを告白する。
~梅原猛著作集10「法然の哀しみ」(小学館)P566-568
古の高僧・傑僧は理がわかっていたことがわかる。
しかしながら、あの厳しい紅陽の時代、最後の一点を授かることができなかった。
グスタフ・マーラーも心のどこかで、宇宙の原理を知っていたのではないかと思わせる節がある。彼の生み出す音楽は悉く陰陽二元の、対立の中にある。しかも、それが解決しないまま繰り返されるのだ。(彼は生涯かけてその解決を音楽で試みようとしたが、できなかった)
交響曲第9番はマーラーの自己告白だろう。
僕は研ぎ澄まされた、錬磨された、それでいてマーラーの本質を、(本人の意思、意図はもちろんないと思うが)佛への帰依を表現するようなカラヤン晩年の演奏が好きだ。
とてもきれいな、美しい告白。それは似非かもしれない。そこには無論懺悔もないだろう。
それでもマーラー自身の内なる大きな懺悔心が表出するような演奏であることに違いない。
・マーラー:交響曲第9番ニ長調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1982.9.30Live)
マーラーの音楽は崇高さと卑俗さの距離が近いとカラヤンは言う。
ついにカラヤンが録音したということで当時音楽界が色目気立った演奏は賛否両論だったが、こちらは時間をあけず再録した1982年9月、ベルリン芸術週間でのライヴ録音。
それこそ光と闇の交錯が、如実に示される名演奏だ。
そこに煩悩たるマーラーの、否、カラヤン自身の(良くも悪くも)あまりに人間臭さが刻印されるのだから面白い。(個人的には第1楽章の半端ない熱量に身も心も焦がされる思い)


