
コロナ禍、無観客だからこそ示される崇高な作品130の真髄。
ベルチャ弦楽四重奏団の、緻密なアンサンブルと、メンバー個々の精神がベートーヴェンに捧ぐ、誠心誠意の極大世界あるいは極小世界。
かつてジャン・コクトーは次のように書いた。
美とは、この世の存在を互いに惹き寄せあい、互いを自らの支えとして信頼させあうために、自然がめぐらす巧妙な策略の一つだ。
自然のその策略の行使方法はこの上ない無秩序の中にある。人間が背徳と称しているものは、自然のあらゆる種にも共通のもので、そのメカニスムは、様々なものに盲滅法に作用している。自然は、いかなる犠牲を払ってでも、その目的を達成してしまうのだ。
天体におけるそうしたメカニスムの原動力について正確には想像できない。それは、その原動力をぼくたちに示す光が、反射光であるか、または光のつねとして、一種の分解光であることに原因がある。人間は、それらの原動力がシャンデリアとして自分たちに役立っていると思い込んでいるが、しかし、それはただそれらの原動力を、すでに磨滅し、あるいは死に絶えた状態で観察しているにすぎない。
「美について」
~ジャン・コクトー/秋山和夫訳「ぼく自身あるいは困難な存在」(筑摩書房)P174
コクトーの論は正しくもあり、また間違ってもあるだろう。
僕たちは因果律の中にあり、光も闇も自分の心が創り出しているにすぎないことに気づくべきなのだ。原動力に死はないから。(ただし、人間の感覚からは死の状態に見えることもあるだろう)(要は、真理を知らなければ何もかもが「死の状態」にあるように見えるから)
宇宙の根源は命そのものと同一。
ベートーヴェンの音楽が真に美しいのは、彼が真理を心得ていたからだ。
それは、死に絶えた状態での観察ではなかったということだ。
だからこそ、ベートーヴェンはいつも神と、真理と共にあった。
6つの楽章はそのことを如実に示す。
・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番変イ長調作品130(大フーガ作品133付)(2021.2.23収録)
ベルチャ弦楽四重奏団
コリーナ・ベルチャ(ヴァイオリン)
アクセル・シャシェル(ヴァイオリン)
アントワーヌ・レデルラン(チェロ)
クシシュトフ・ホジェルスキー(ヴィオラ)
アマデウス四重奏団、アルバン・ベルク四重奏団など錚々たるアンサンブルに師事した彼らのベートーヴェンは、現代随一といっても過言でない。
作品130は、第2楽章プレストを序奏として第3楽章アンダンテ・コン・モト,マ・ノン・トロッポ.ポコ・スケルツォーソ)が、第4楽章「ドイツ風舞曲」(アレグロ・アッサイ)を序奏と見立て第5楽章カヴァティーナ(アダージョ・モルト・エスプレッシーヴォ)が映える6楽章構成だが、晩年のベートーヴェンの革新的な試みが、ここでも縦横に発揮され、原典である「大フーガ」を終楽章に置くことにより、極大世界と極小世界の交流を体感できるものになっている。
スイスはバーゼル、音楽・文化センター「ドン・ボスコ・バーゼル」内パウル・ザッヒャー・ホールでの収録。
観客がいないゆえの静寂と緊張感。
後期ベートーヴェンの深遠な世界は、自然と一体になった命そのものが創造した奇蹟であると僕は思う。未だ「道」のなかった時代にあって、最晩年の楽聖の思いは、やはり「大歓喜」だったのかどうなのか。
大フーガが聴衆に受け入れらないことに嘆いたベートーヴェンは、時代が早過ぎたことを悟ったのかもしれない。似非の歓喜たる新しい終楽章は、大フーガの素晴らしさに比肩できるものではない。(それでも、確かに最後の創造物は「普通」ではなかったのだけれど)
昨今は、多くのカルテットがオリジナル版で演奏することを考えると、いよいよ世界が開かれる時代が訪れたのだと理解できる。実に素晴らしいベートーヴェン。
