
他者のためにであれ、自分自身のためにであれ、自分の美学の基本方針を表明する必要を私は感じたことがない。もしそうしなければならないとしたら、モーツァルトがその問題について率直に言ったことを私も繰り返す許可を求めるだろう。音楽は、それが魅了し、それでもつねに音楽であり続けるなら、すべてを企て、すべてを敢行し、すべてを表現することができると彼は語るだけにとどめていた。芸術の虚構や誠実さの危険について、みたところとても逆説的な諸々の意見を私に与えて人々は時折楽しんできた。実際に、私は単純かつ絶対に、芸術家の意識—それはひとつのことである—を芸術家の誠実さ—それは別のひとつのことである—と混同することを認めない。後者は前者が芸術家の自己表明を助けなければいかなる価値も持たない。その意識は私たちが自己の内で腕の良い職人芸を発揮させることを要求する。私の目標はしたがって技術的な完璧である。けっしてそれを達成することはないと確信している以上、私はたえずそれを目指すことができる。重要なのはつねに一層そこに近づくことである。
芸術はおそらく他の諸々の効果を持つ。けれども、芸術家は、私の思うところでは、他の目的を持つべきではない。
「音楽についての幾つかの省察」
~モーリス・ラヴェル/笠羽映子編訳「ラヴェル著述選集」(法政大学出版局)P201-202
兎にも角にも、音楽そのもので勝負すること。
それ以外の表明など一切不要だとモーリス・ラヴェルは言う。
そして、常に完璧を目指しながら、常に完璧にはなりえないがゆえに、自分は常に精進するのだと彼は表明するのである。
実際、20世紀の初頭にあって、ラヴェルの音楽は常に革新的だった。
例えば、ツィガーヌ。イェリー・ダラニーのためにラヴェルが書いたハンガリー狂詩曲風即興的音楽の粋。
《ツィガーヌ》は、ハンガリー狂詩曲の味わいを持った技巧的な作品である。
(モーリス・ラヴェル)
~同上書P199
作曲者本人がイェリーの演奏に感銘を受けての創作ゆえ、実に技巧的で聴き応えのある音楽だ。
戦後まもなく、しかし彼女にとってはもはや晩年にあたる1946年3月に録音したラヴェルとショパンは、兄ジャン・ヌヴーとの初録音である。
個人的には野趣溢れるラヴェルの「ツィガーヌ」に魅かれ、ロディオノフ編曲によるショパンの遺作も原曲の個性を生かしながら、いかにもヌヴーらしい、自由闊達な表現と、芯のある確信的な音楽にこの曲の持つ幻想的な美しさを見事にとらえており、感動的だ。
あるいは、ファリャのスペイン舞曲(クライスラー編曲)は、いかにもクライスラー好みの熱く、民族的な響きが聴く者の郷愁を誘い、この後数年で急逝してしまった彼女の魂の叫びを聴かされるようで、なんだかとても胸が苦しくなる。
