ソロモン クリュイタンス指揮フィルハーモニア管 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58ほか(1952.11録音)

「ミンクの手袋をはめた鉄の拳」。

ソロモン・カットナーはそう呼ばれていたそうだ。
1956年、54歳のときに脳梗塞のため左手が不自由になり、引退を余儀なくされたため、伝説のピアニストになっているが、その評価は抜群のものだったらしい。

残念ながら僕たちがその技量を確認することは難しい。
残された録音を聴いても、確かに端正で優等生的な演奏を披露しているのがわかるくらいで、感動的かと言われれば、私的には「それほどでもない」と答えざるを得ない。

全盛期のソロモンの演奏を聴いてみたかった。

クリュイタンス指揮フィルハーモニア管弦楽団と録音したベートーヴェンの協奏曲を聴いた。冒頭から叙情に溢れ、クリュイタンスの音楽性に秘められた知性、あるいはエレガンスとブレンドされ、中庸の、ベートーヴェンに内在する詩的な美しさが前面に押し出された名演奏であるに違いないことがわかる。

しかしながら、個人的に、それ以上の「何か」を感じないのである。
(ベートーヴェンの名曲であるというに認識以上のものを見出すことができないということだ)

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19
・ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58
ソロモン・カットナー(ピアノ)
アンドレ・クリュイタンス指揮フィルハーモニア管弦楽団(1952.11.3-6録音)

ところで、私が音楽愛好家かどうかとのお尋ねですが、『愛好者』という言葉を使われるのでしたら(実はハンス・カストルプはそんな言葉は使わなかったのである)、その用語選択はまずくはないと思いますね、おだやかな浮気といったような意味の言葉ですから。そのとおり、異議はありません。私は音楽愛好家です。—といっても、これは私が音楽をことさらに尊重しているということではありません。—私は言葉、すなわち精神を盛る器、進歩の道具、その輝かしい鋤である言葉を何よりも尊重し愛しているのですから。・・・音楽・・・これは口ごもるような、曖昧な、無責任な、気ままなものです。おそらくあなたは、音楽だって明晰なものでありうると反論なさりたいでしょう。しかし、自然だって、小川だって明晰でありうるのだし、そうだからといって、それがどうしたというのでしょう。それは真の明晰ではないのです。それは夢のような、無意味で無責任な明晰、首尾一貫しない明晰であって、人をそういう境地に安住させてしまう誘惑力を具えているから危険でもあるのです。・・・たとえば音楽に気高い身ぶりをさせるとしまう。よろしい、それによって私たちの感情は燃えたたせられます。しかし肝心なのは、理性を燃えたたせてくれるかどうかなのです。音楽は一見運動そのものと思われますが—それにもかかわらず私は、音楽というものは静寂主義に結びつくのではないかと疑っているのです。極端ないい方をしてよろしければ、私は音楽に対して政治的反感を抱いているのです。
~トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山」(上巻)(新潮文庫)P239-240

実際のところ、言葉の方が曖昧であり、無責任であり、気ままなものだと僕は思う。
もっとも音楽に限らず、芸術というものがそもそも曖昧模糊としているのだからどっちもどっちなのだが。

この世に存在するすべては仮ものゆえ致し方ない。
それならば、すべてを淡く捉え、淡く見た方が賢明だ。

その意味で、演奏にも「絶対唯一」というものは存在しない。
吉田秀和さんはソロモンを絶賛したという。
(そういう評価も成り立つということだ)

ソロモンのベートーヴェン作品106&作品111を聴いて思ふ ソロモンのベートーヴェン作品106&作品111を聴いて思ふ

ひょっとすると、いずれ僕にもソロモン・カットナーの素晴らしさがわかる日が来るのかもしれない。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む