バーンスタイン指揮ウィーン・フィル ブラームス 交響曲第2番ほか(1982.9Live)を聴いて思ふ

晩年のレナード・バーンスタインの音楽は、遅々として拡がりを欠く駄演も多かったが、それがゆえの神々しい瞬間を多発させる名演奏もたくさんあった。器の大きい、理知に富みながらも浮き沈みの激しい、感情の揺れ幅の大きい人だったのだろうと思う。

ところが、死の10年前、80年代初頭の彼の音楽は、中庸の、バランスの保持された、一見平凡な、しかし、実に味わいの深い演奏が多かった。例えば、ブラームスの交響曲全集。中でも、交響曲第2番ニ長調は、どっしりとした土台の上に構築された、堅牢な御堂のような風貌と、音の一粒一粒に刻印された内面の自由さが発露する名演奏であった。

このレコードが発売された当時、前田昭雄さんはこの作品を評して次のように書かれている。もちろん音楽雑誌の試聴記ということもあるから、言葉のすべてが本心から出たものなのかどうかは定かでない。しかし、前田さんの批評にはいちいち説得力がある。

でも音楽は先へ進む。このフィナーレは素晴らしい。演奏もぐんぐんと乗っていって、終盤にはインスピレーションが流れている。
輝かしい空がひらける。オーストリアの南端に近く、ヴェルター湖の畔りで生まれたこの作品、青い大空の先はイタリアにつながる。
森の緑は、しかし心を落着かせる。南オーストリアの自然は、特別な味を持っている。
ブラームス―。

~「レコード芸術」1983年10月号P241

そうだ、確かにこの音楽の内には大自然の息吹がある。
それをうまく表現できれば、間違いなく名演だ。バーンスタインの奏でる音楽は、大自然と同期するようにまったく自然体で無理がない。

ブラームス:
・交響曲第2番ニ長調作品73
・大学祝典序曲作品80
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1982.9Live)

ところで、かつて柴田南雄さんは、ブラームスについて次のように総括した。

ブラームスの本質は、非常にドイツ的な魂の、心情の、奥底からの、歌の、心である。

何と的を射た形容であろうか。僕は、アメリカ人であるバーンスタインの音楽にも、不思議に同様なものを感じた。間違いなくそこには「歌」があった。

大学祝典序曲の、堂々たる佇まい。
はちきれんばかりの、少し道化的な愉悦の表情は、厳格で真面目なブラームスの印象を傷つけはするが、ここにも心の奥底からの歌があった。

彼女は道に迷っていた、自分の歩いてきた道を見失っていた、それを見つけだすことはもうないだろう。「ブラームスはお好きですか?」という一句が、とつぜん広大な荒野の世界を露わに見せてくれたように思えた。彼女が忘れていたあらゆること、彼女がわざと避けていたあらゆる疑問を。「ブラームスはお好きですか?」いったい彼女は自分自身以外のものを、自分自身の存在をまだ愛しているのだろうか?もちろん、彼女は自分がスタンダールを好きだと人にもいい、自分でもそう思いこんでいた。
フランソワーズ・サガン/朝吹登水子訳「ブラームスはお好き」(新潮文庫)P55

ブラームスの音楽は、人を情動する。それによって道が開けるのだ。

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