ソロモンのベートーヴェン作品106&作品111を聴いて思ふ

beethoven_29_32_solomon239音楽においてテンポはとても重要な要素だが、その作品が作曲された当時の人間の速度や呼吸や、そういうものの影響を受けている以上、楽譜に指定された速度を原典重視としてそのまま受け入れるのはいかがなものだろう?
それと、凡人の目には見えないものが見えるという輩も世の中に多く存在する以上、天才といわれた人たちが創造の過程で「何を見ていて、何が見えていたのか」を僕たちが勝手に解釈することなどそもそも不可能なんだ。

ベートーヴェンは特に晩年、次元を飛び超えていたのだろうと想像する。
次元を超えるとは、すなわち時間や空間の感覚を超越するということだ。
諸作品の、ほとんど悟りの境地ともいえる作風を鑑みればそのあたりは明らかだが、作品106のソナタや第9交響曲にみられる楽譜上のテンポ記号の違和感などはそのことを十分証明するに値する。
後世の学者や演奏家が束になってかかったところで、真実は絶対に見えないことだろう。何より天才が自身の内側に溢れる音楽を譜面化するのに間違いなど起こすはずがないのだから、彼の書いた記号はすべて「正しい」のである。

ただし、あくまで僕の妄想であるけれど、ベートーヴェンが書いたものをそのまま音にするのはやっぱり違う。
物理的にテンポをそうすれば正しいというのではないんだ。もっと精神的な、否、霊的な瞬間移動的感覚を獲得できる演奏になっているなら、物理的に速かろうが遅かろうが問題ではない。ベートーヴェンを体得するとはそういうことなんだと思う。
ソロモン(・カットナー)の弾く楽聖晩年のソナタは時空を超え、僕たちの心に直接に響く。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」(1952.9.15, 16&11.21,22録音)
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111(1951.5.16, 24録音)
ソロモン(ピアノ)

將欲天下而爲之。吾見其不得已。天下神器。不可爲也。爲者敗之。執者失之。故物。或行或随。或歔或吹。或強或羸。或挫或隳。是以聖人。去甚。去奢。去泰。
老子第29章
福永光司「老子」(朝日新聞社)P212

真の聖人は奢りや高ぶりを捨て、自然にそのまま従うのだと説く。天下を治めるのに人の力ではなす術なしと。
まったくの偶然に過ぎないが、この言葉が「第29章」であることが興味深い。しかも、ソロモン王の箴言に同様のことを意味する言葉があるというのも摩訶不思議。

驕傲は滅亡に先だち、誇る心は傾跌に先立つ。
高ぶる目と驕る心とは、悪しき人の光にして、ただ罪のみ。
~同上書P215

ここでソロモン・カットナーの弾くベートーヴェンの通称「ハンマークラヴィーア・ソナタ」が特別のものであることを悟る。実際、第3楽章アダージョ・ソステヌートの音の一粒一粒を丁寧に奏し、聴く者を諭すかのような彼の演奏はいかにも聖なる「老子」の如く。
そして、時に涙ぐむ旋律は、まるで自身をはじめとする傲慢な人間への警告のようにも聴こえる。美しい。
終楽章のアレグロ部の決して慌てない落ち着いた表情は、ソロモンが、ベートーヴェンの作品が余計な恣意を受け付けないことをよくわかっていたかのよう。そして、アレグロ・リゾルート主部の複雑でありながら決然たる響きに敬服。
作品111も、実に男性的でオーソドックな解釈でありながら、(EMIの古い録音のせいもあるのか)第1楽章マエストーソ―アレグロ・コン・ブリオ・エド・アパッショナートのデモーニッシュな空気感と第2楽章アリエッタの天使の降臨を想うような(対比の)音調に神々しさを覚える。実演に触れてみたかった。

 

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