
パレストリーナの音楽に触発されたシャルル・グノー。
1884年の春に完成し、1885年8月26日にバーミンガムで初演されたオラトリオ「死と生」の作曲を取り巻く状況についてはほとんど知られていない。作曲家は作品の序文で次のように書いている。
「私は、死を生より先に置いた。なぜなら、永遠のもの(真)の秩序においては死が生に先立つが、一時的なもの(仮)の秩序においては生が死に先立つからである。死は、日々少しずつ死んで行く存在(肉体)の終わりに過ぎない。しかし、それは、もはや死ぬことのないもの(命・霊性)のはじまりの瞬間であり、実際には誕生なのだ」。
3部構成のこの作品は、短い命の束の間の悲しみから永遠の至福へと至るその過程を描いている。すなわち、この世で死が私たちに流させる涙、より良い人生への希望(第1部:レクイエム)、絶対的な正義への厳粛な畏怖(第2部:選ばれた者と排除された者への審判)、永遠の愛(慈しみ)への優しくも親愛なる信頼(第3部:天上のエルサレムの幻影)を表現しているのだ。
(ジェラール・コンデ、2018年)
信仰心篤き作曲家は、世のからくりを知っていた。
しかしながら、命・霊性そのものにアクセスできる手段がなかった19世紀において、そういう人たちは可能な限りあらゆる手段を使ってそのからくりを世の人々に知らしめようと試みた。
グノーが、前作「贖罪」とあわせ、最大傑作として自負したオラトリオ「死と生」。
2時間半を要する大作は、どの瞬間も素晴らしく、敬虔だ。
本来、死も生もなく、まさに「審判によって下される玉石分班」しかなかろう。
第1部の主題である「死」はことごとく安寧で包まれ、同じく第3部の主題となる「生」も明朗であり、希望によって包まれる。
絶対的な安心の中で奏でられるすべての楽曲は、独唱陣の慈愛こもる歌唱によって一層祈りの度合いを増す。
音楽の静謐さは、ガブリエル・フォーレの「レクイエム」に匹敵し、おそらくフォーレはグノーのこの作品も参考にしたのではないか、そんなことを僕は考える。
何より第3部第7番合唱「私はアルファであり、オメガである」(ヨハネの黙示録)から「いと高きところのホサナ」にかけてのクライマックスは聴きどころの一つだろう。
このシーンは幾度聴いても感動が歓喜される。
サムシング・グレイトタル創造主への讃美、感謝を忘れてはならない。
暗澹たる、そして混沌とした現代社会にあって、感謝と懺悔は誰にとっても必須だ。
すなわち僕たちの霊性そのものを、本性そのものを信じ切れるかどうか。
「仮を借りて真を知る」と言われるが、それは「仮もまた真だ」ということを表わす。
すなわち、生も死も一体であり、怖れるものなど何もないことを言う。
ひたすらに、シャルル・グノーの音楽に耳を傾けよう。

