
かつて少年の頃に目にした大木正興さんの文章に釘付けになった。
しかし、当時の僕には、その意味、その意義は到底わからなかった。
1821年、親友のF.ブレンターノに送られた手紙の中で、ベートーヴェンはこれらのピアノ・ソナタを「パンのための仕事」としている。精魂を傾けた「ミサ・ソレムニス」の前では、当面の必要に迫られた仕事であったかもしれないが、しかし、そこにもまた「ミサ・ソレムニス」と同じ高さの精魂的充実と、技法の熟達と、そして何よりも老いてようやく手中に収められた高い叡智の光をみることができるのである。
(大木正興)
これほど見事に、かつ端的に晩年のベートーヴェンのことを言い当てた表現はなかろう。
そして、中でも、作品110のソナタについて、大木さんは次のように表現するのだ。
作品110のソナタには、老いの深いしわの中にきざまれた、遠い過去の思い出が映されているようである。その回想にひたりながらも、すでにそれをベートーヴェンはある高きから眺めるゆとりを持っているように思われる。美しい甘美な夢は「嘆きの歌」にまで沈潜してゆくが、やがてそれを突抜けるフーガの確実な足どりがきこえてくる。1820年はやがてベートーヴェンの命を奪うことになる肝臓病の最初の兆候があらわれた年であった。それは一時快方に向かう。その経過がこのソナタに反映しているとロマン・ロランはみている。
泣きそうになるくらいに美しい。
兎にも角にも人間業とは思えない、孤高の境地を体感したければ作品110のソナタを聴くが良い。
この作品には名演奏が多い。
これまで耳にしてきた様々なピアニストの、どの演奏も素敵だと僕は思う。
その日、そのときの気分によって僕は聴き分けることにしている。
9月はついにずっと雨だった。
こんな年は観測始まって以来一度もないらしい。
濡れた地面と、秋深まる樹々の幹を見つめながら僕は若き日のエリック・ハイドシェック(巨匠もついに90歳だ)を聴いた。晩秋の雨は寂しさと同時に、明日への希望をも映す。
明日は晴れるだろうか。
ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
エリック・ハイドシェック(ピアノ)(1963頃録音)
明快な打鍵は厳しく激しく、そして瞑想的なピアノはどこまでいっても祈りの境地。
幾度も耳にしたハイドシェックのリサイタルを僕は思い出す。
音楽はキリスト教によって植えつけられ発展させられはしたものの、魔神的な領域であるとして否認され排除されたとなれば、おわかりだろう。きわめて神学的な問題なんだよ、音楽は。罪がそうであり、ぼくがそうであるように。音楽に対するあのキリスト教徒の情熱は真のパッションなのだ。つまり、認識と堕落とはパッションとして一体なんだ。真の情熱は曖昧なものの中にのみ、そしてイロニーとしてのみ存在する。最高のパッションは絶対に疑わしいものに向けられる・・・いや、ぼくはたしかに音楽的なんだが、まあその話はやめにしよう。
~トーマス・マン作/関泰祐・関楠生訳「ファウスト博士(中)」(岩波文庫)P133-134


