フルトヴェングラーのモーツァルト

先日来、熱に浮かされたようにフルトヴェングラーのモーツァルトを聴いているが、例えば1949年の「魔笛」にせよ、1953年の「ドン・ジョヴァンニ」にせよ、聴き始めはその音質の悪さが多少気になるものの、数分も経たないうちに完全に彼の世界に引き込まれ、まったく音質云々などしようとも思わない感覚になることが不思議でならない。2時間ほどのオペラでもあっという間に時間が過ぎ、気がつけばフルトヴェングラー芸術に夢中になっている自分を見出す。
嗚呼、何だか30年前のあの頃に感じたあのフィーリング、感覚というのは決して忘れちゃいなんだなと再確認した。
今でこそ音響技術が飛躍的に進歩し、確かにモノラルの古い音源はなかなか前向きに聴こうと思わなくなったというのも事実だが、音の良し悪しを超えて心の芯に訴えかける神業まがいの音楽創造という意味ではやっぱりフルトヴェングラーの右に出る者はいないんじゃないのか、今更ながらだが、そんなことを思った。
もうひとつのフルトヴェングラーのモーツァルト。

モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466
ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
イヴォンヌ・ルフェビュール(ピアノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.5.15Live)

昨日とうって変わって東京は一日雨模様。
何だか春先に戻ったかのように肌寒い。
異常気象には違いないが、何だかこの雨も浄化の雨のような(気がするが)。

ところで、この有名なルガーノ・フェスティバルでの録音は、最晩年のフルトヴェングラーの枯淡の境地を示すと同時に、これ以上ないという透明さを内包する。そして、やっぱりどうにもこうにも内燃するデモーニッシュな側面は健在で、フルトヴェングラーはいつどんな時でもやっぱりフルトヴェングラーだったんだと確信する。
モーツァルトのニ短調の協奏曲は、かのベートーヴェンも舌を巻いた稀に見る傑作で、指揮者やピアニストの力量によっては腑抜けのような演奏になりがちなのだが、これほど作曲者の心の声を代弁し、哀しみに吠える解釈があろうか。
冒頭のシンコペーションから彫が深く、ともかくオーケストラとピアノが一体となり、一切のぶれなくモーツァルトの慟哭の叫びを聴衆に伝える。

ちなみに、「田園」交響曲は、どの瞬間をとってもフルトヴェングラーのそれだ。終楽章の「祈り」はことによるとフルトヴェングラーのどの録音よりも意味深い。直前の金管の雄叫びとともに音がうねり、かつ沈潜する。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。

ご紹介の演奏、カデンツァにベートーヴェンの名作を使ってくれたら、と少し残念ですが、おっしゃるとおりデモーニッシュな本質がよく示された超名演ですね。

>異常気象には違いないが、何だかこの雨も浄化の雨のような(気がするが)。

別に異常ではないし、汚染は地面や川や海に行くだけでしょうね。目の前の汚れが落ちればよいというものでもないです。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
確かにベートーヴェンのカデンツァだったらより面白かったでしょうね。
晩年に例えば27番のコンチェルトなどをフルトヴェングラーが録音していたら、「魔笛」のような深みのあるものになったんだろうといつも想像します。(一般受けはどうかわかりませんが)

>別に異常ではないし、汚染は地面や川や海に行くだけでしょうね。目の前の汚れが落ちればよいというものでもないです。

はい。酔っ払った上での思い付きのような箇所ですのでお許しを。

返信する
アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » 吉田秀和氏を悼んで

[…] 吉田秀和氏が亡くなったという。98歳という天寿を全うして。 とはいえ、つい先日まで記事を拝見したり、写真ではあるけれど元気そうなお姿を見ていたので正直驚いた。人間は誰しも必ず死を迎えるわけだから、しかも氏の場合100に近い年齢のわけだからいつこういうことが起こっても不思議ではないのだが、それにしても唐突過ぎる。儚い・・・。 奇遇なことに、数日前、フルトヴェングラーの歴史的録音を聴き漁っていた時、1954年のザルツブルク音楽祭での有名な「ドン・ジョヴァンニ」の音盤も久しぶりに耳にしていた。ああ、そういえばこの実演をフェルゼンライトシューレで吉田さんは聴いておられたんだっけ、羨ましいなという想いを重ねて。 […]

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む