クナッパーツブッシュ&バイロイト祝祭管の「ジークフリート」(1956.8.15Live)を聴いて思ふ

wagner_ring_knappertsbusch_1956007楽劇「ジークフリート」第2幕は画策の幕であり、駆け引きの幕である。音楽はただただ静かに低空飛行を続けるが如く不気味な趣きを呈する。
第2場でのジークフリートの独白。

あいつが父親でないことが分かって
ほんとにせいせいしたな!
森だって、これまでになく
すがすがしく感じられるし、
日の光もひとしお輝きを増して
この俺に笑いかけてくるようだ
日本ワーグナー協会監修・三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「ジークフリート」(白水社)P89

大自然と大宇宙の雄大さと、心の持ちようによってそれとつながることもできれば、できなくなることもあることを仄めかすような言葉。ジークフリートは続ける。

せめてひと目、母親に会ってみたいよ!
俺の母親―
人間の女に!
~同上書P89

ジークフリートは「母という病」にかかっていたということであり、すなわち母との絆が不完全であったということ。ちなみに、ここでいう「母」とは、自身を産んでくれた母でもあり、大宇宙創世の母のことでもある。そして、上記の言葉の直後以降の、いわゆる「森のささやき」と呼ばれる音楽の崇高さと美しさは、不気味な様相を示すこの楽劇の中でも唯一ほっと息のつけるシーンだ。
ジークフリートとのやり取りの中で、森の鳥の声は歌う。

わぁーい! ジークフリートは
たちの悪い小人もやっつけた!
そこで彼にうってつけの
最高の女性がいるんだけどな、
その人は高山の岩畳の上に寝ていて
燃えさかる炎がぐるりをとり巻いている。
炎の海を踏みこえて
花嫁の眠りを覚ませば
ブリュンヒルデは彼のものだよ!
~同上書P117

なるほど、ジークフリートが、ブリュンヒルデに「母なるもの」を求めていたことが仄めかされる。しかしながら、そもそも絆が不完全であったゆえ、2人は死をもってでしかひとつになれなかった。裏返すと、人類も、さらには神々も、「母なるもの」との絆を正しく結ばない限り決して報われないのだということをワーグナーはどこかでわかっていて(あるいは無意識に)この壮大な楽劇を生み出した(書かされた)とも解釈できないだろうか?少なくとも僕にはそのように思えてならない。

ワーグナー:楽劇「ジークフリート」
ハンス・ホッター(バリトン、さすらい人)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(テノール、ジークフリート)
アストリッド・ヴァルナイ(ソプラノ、ブリュンヒルデ)
グスタフ・ナイトリンガー(バス、アルベリヒ)
パウル・クーエン(テノール、ミーメ)
アルノルト・ファン・ミル(バス、ファフナー)
ジーン・マデイラ(アルト、エルダ)
リーゼ・ホルヴェーク(ソプラノ、森の鳥の声)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団(1956.8.15Live)

第2幕第2場でのクナッパーツブッシュの表現は、真に自然体で美しい。この、自然描写と深層心理描写の錯綜する様はワーグナー音楽の真骨頂であり、そしてそれを見事に再現するクナならではの腕とセンスの爆発である。
それにしても第2幕だけで80分近くを要するのだからワーグナーを聴くには相当の根気が要る。とはいえ、その忍耐力(?)が獲得できればこれほどに深い、人類永遠の至宝を十分に堪能できるのだからかけがえない。

クナッパーツブッシュの1956年バイロイト・ライブを聴きながらそんなことを考えた。

 

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1 COMMENT

岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] クレメンス・クラウスの生み出す音楽は不思議に明るい。 楽劇「ジークフリート」第3幕の前奏曲もクナッパーツブッシュの深く虚ろな響きに対して音色が軽快で透明、実に見通しよく心に直接に伝播する。 ワーグナーがルートヴィヒ2世に宛てた手紙(1869年2月23日付)の一節にはこの部分を指して次のようにある。 […]

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