瀧口修造の死に際し、武満が残した追悼文集の中の一節が美しくも崇高だ。
私は「死」のことを考え続ける。身近な死の汀から無限の死の涯までを満たしているもの。その薄い不可浸透質の被膜に覆われた生を、人間は覚束なげな跫どりで歩いている。言葉の杖をついて歩いている。
死は虚無ではあるまい。それは人間が言葉の杖を放すときだ。危うげな歩調、永遠と絶対への不逞な欲望から解き放たれて、言語につくせぬ認識の大海に浸る、最後の、そして同時に始原の営為ではあるまいか。だが、生あるものは、死の意味や死の価値を問うことはなるまい。私たちは未だ言葉の杖に導かれて歩いているのだ。
「閉じた眼—Les yeux clos」
~「武満徹著作集5」(新潮社)P307
死という大海の中に、生はほんの小さな一滴として存在する。どちらが本物なのか、実際のところはわからない。ただ一つ、死は恐れるものではないということだ。
武満徹が死の淵で聴いた音楽はバッハの「マタイ受難曲」だったという。
実は、3月末の定期健診で、ガンの疑いが出、ちょうど精密検査をしようとしていたところだった。入院して検査をしたところ、膀胱ガンの初期であることが判明したが、ごく軽いもので、BCG注入治療をすると、これがよく効き、5月15日には、医者から退院してもよいと許可が出るほどだった。
ところが、いよいよ退院というその日になって、もう一度検査をすると、ガンは首のリンパ節に転移していた。そのときのことを、武満は次のように書いている。
「定期的な検査で、ごく初期の癌が発見され、手術するまでもなく、近年開発された新療法で充分対症できるだろうということになり、ほっとしたやさき、軀に急激な変調をきたして、癌は僅か数日で淋巴節に転移していた」(「二律背反」『時間の園丁』所収)
切らずに、抗ガン剤で治療することになった。
「当然、薬の副作用を覚悟しなければならない。(中略)こうして書いている間も、間断なく襲ってくる吐き気、それに全身を蔽う倦怠感はかなりのものだ。(中略)
それにしても、突然、自分が癌を宣告されようとは思ってもみなかった。
対岸の火が、対癌の日になったわけである。
私の癌細胞は新鋭の化学薬物が退治してくれる。おかしな因果関係だが、副作用のために私はその薬と闘うことになる。なにやら歌舞伎の因縁話めいていておかしい」(同前)
~立花隆「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋)P586
運命と言われればそれまでだが、癌さえ生活習慣病ゆえ、武満には根本的な意識変革が本当は必要だったのだと思う。抗うのでも、闘うのでもなく、いかに共生するか。
それにしても「マタイ受難曲」を愛した武満が、最後に聴いた音楽が「マタイ受難曲」だったというのは天の采配以外の何ものでもあるまい。FM放送での演奏だったというが、果たして誰の演奏だったのか、興味深いところだ。
「マタイ受難曲」には生を思い、生きる智慧を喚起する力がある。
あるいは、死は恐れるものではないという、勇気を喚起する力がある。
果たしてイエス・キリストが磔刑に至ったそのとき、かの聖人の内側で何が起こっていたのか。バッハの音楽にある峻厳さ、同時に慈悲と智慧。人類の最良たる至宝が、今もどこかで聴かれているという奇蹟。
録音でも実演でもたくさんの「マタイ受難曲」に僕は触れてきた。
幾度聴いても感動的な、心が現われる傑作に拝跪する。中でも、エポック的名演奏は戦前のアムステルダムでのヴィレム・メンゲルベルクによるものと巷間いわれるが、死の年の4月にヴィルヘルム・フルトヴェングラーがウィーンで成し遂げた演奏こそ、知る人ぞ知る屈指の演奏ではなかろうか。これほどまでに人間の感情を煽る、しかし涙が枯れるほど淡い、冷静な(?)演奏が他にあるのか。
ある意味2つの演奏は対極にある。信仰を軸にイエスのドラマを、肺腑を抉るように組み立てるメンゲルベルクに対して(文字通り)枯淡の境地の中で死の安寧を謳うフルトヴェングラーの妙。
(年齢を重ねるにつれてフルトヴェングラーの「マタイ」の偉大さが心に沁みるようになった)
ウィーンはコンツェルトハウス大ホールでのライヴ録音。例によってテンポの伸縮激しい、浪漫仕様の「マタイ受難曲」。果たしてイエスの受難物語にこれほどの情感が必要なのか不明だが、それでも聴衆に感動を与えるべきドラマだとするならありだろう。唯一の救いは、この演奏が死の半年前のものであり、本人が意図しようがしまいが、以前ほどの音楽へののめり込み方が減少していることだろうか。カットが多々あるせいなのかどうなのか、それとも僕自身が音楽そのものにシンパシーを持っているからなのだろうか、あっという間に感動的な終曲に至る。
不滅の記録だ。
神のため人間を愛する。—これこそは今日にいたるまでに人間の及びえた最も高貴で幽遠な感情であった。聖化しようとする秘かな意図といったもののない人間への愛は、愚劣どころかむしろ獣的であるということ、また、このような人間愛への性向は、より高い性向からはじめてその基準、その優雅、その微量の塩と竜涎香をもらいうけるようになるということ。—このことを初めて感じまた〈体験〉した者は、よしそれがどんな人間であったにせよ、これほどの微妙繊細なことを口にしようとしたとき、どんなにかその舌がもつれたことであろう。この者は、これまで最も高く飛翔し最も美しく迷った人間として、いつの時代にも聖なる者とされ崇敬されてゆくであろう!
「善悪の彼岸」60
~信太正三訳「ニーチェ全集11 善悪の彼岸・道徳の系譜」(ちくま学芸文庫)P110
迷い人たる僕たちの求める音楽がここにある。