ストラヴィンスキー自作自演「詩篇交響曲」(1963.3.30録音)ほかを聴いて思ふ

works_of_igor_stravinsky355あなたの傍らにいるには、私は何をすればよいのでしょうか。・・・あなたに会うことは本当に大きな幸せです。あなたはあなたに引き寄せられた人々に、本当に多くのものを与えてきました。そして私は・・・、私はといえば、あなたをとても愛しています。同じようにあなたを称賛しております。こう言っておかなければならない必要性を時々感ずるのです。こう言った感情の吐露が無駄であることは十分承知しているのですが、でも、音楽家たるものが苦労する混沌の最中にあって、あなたがいてくれる、偉大で必要とされていて、正しいあなたが。もう言葉なんて意味はない。今すぐ会いたいのです!
ジェローム・スピケ著/大西穣訳「ナディア・ブーランジェ」(彩流社)P178

1956年のナディア・ブーランジェからイーゴリ・ストラヴィンスキーに宛てた手紙の一節である。有能な作曲家に対する尊敬の念ばかりでなく、彼女の極めて個人的な恋愛感情までもが直接的に投影される。
それに対して、(特に)アメリカ移住後の生活を支え、重要な役割を果たしたのがナディアであるにもかかわらず、ストラヴィンスキーの態度は終始冷たいものだったという。

必然か偶然か、すべては出逢いから始まる。
そして、出逢いは突然訪れる。必ず別れをもって。

バレエ・リュスによるストラヴィンスキーの「火の鳥」がオペラ座にて初演されたのも1910年であった。ほかの何とも似ていないこの音楽は、ナディアに衝撃を与えた。そして、数日後両者は出会い、このロシアの作曲家(27歳で、ナディアよりたった5歳年上にすぎない)への、ほぼ一生を通じて続くことになる崇敬の念をナディアの胸に抱かせた。
~同上書P44

ナディア・ブーランジェの一途さに感動する。そして、どちらかというと才能を発掘し、後進を育成することにすべてを捧げた彼女の原体験こそ、このストラヴィンスキーとの出逢いであり、また、同年の特別な出来事、すなわち妹リリの作曲家開眼の事実であったことが興味深い。

しかし、1910年には、もう一つの特別な出来事も起きていた。ナディアの妹である、病弱で天賦の才のあるリリが、突然、作曲に人生を捧げると決心したのである。ナディアはリリを教育し始めたが、ナディアは自分が数年かかったことを、リリが本能のみで、ほんの数ヶ月で習得していくことに衝撃を覚えていた。
~同上書P44

ひとつの大きな対象物を喪失したナディアが向かったところは1910年の衝撃のその人だった。
もしも仮にリリ・ブーランジェの命がもっと長くあったならば、ナディアはリリに時間を一層割いたのではなかったか・・・。ひょっとするとストラヴィンスキーに対する(尊敬というより)異常な愛情ももっと鎮静していたのではなかったか・・・。

結局のところ、1960年代後半からストラヴィンスキーとの接触も激減し、ストラヴィンスキーが亡くなったときには、その衝撃は随分薄くなっていたのだというが、それでも、彼女の作曲家に対する慈愛の念は消えることはなかったらしい。
少なくともセリー主義以外の作品についてナディアは手放しで賞賛した。

ナディア・ブーランジェが生涯にわたりその構成に強い関心を寄せていた「詩篇交響曲」のストラヴィンスキー自作自演が素晴らしい。

ストラヴィンスキー:
・3楽章の交響曲(1961.2.1録音)
イーゴリ・ストラヴィンスキー指揮コロンビア交響楽団
・交響曲ハ調(1962.12.2-3録音)
・詩篇交響曲(1948年改訂版)(1963.3.30録音)
トロント祝祭合唱団
イーゴリ・ストラヴィンスキー指揮CBC交響楽団

「詩篇交響曲」の堂々たる威容。第1楽章の祈りに溢れる音楽はとことん感情を排し、崇高で純粋な心だけを現出しようと試みる様。また、第2楽章の朴訥とした合唱の響きに、ストラヴィンスキーの愚直な姿勢とこの作品に対する自信を思う。
そして、何より素晴らしいのがメインとなる第3楽章。宗教的なるものを超えた精神が刻印される赤裸々な歌。

アレルヤ
主を讃えよ その聖なる場所にて
讃えよ その御力の大空にて
讃えよ 主の力強き御業にて
讃えよ 主の偉大さの大いなることにおいて
讃えよ 喇叭の調べもて
~旧約聖書「詩篇第150~1-6」

 

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3 COMMENTS

雅之

ストラヴィンスキーはピカソとよく比較されますが、セリー主義などを採り入れながらも、晩年に向け静謐な作風になっていった作風の変遷は、ピカソとは真逆のコースを辿っていったような印象を私は持っており、「詩篇交響曲」以降に共感できるようになってくると、逆に、代表作「春の祭典」には無駄な音が多いように感じてくるから不思議なものです。

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岡本 浩和

>雅之様

あー、なるほど!これは目から鱗かもです。
ストラヴィンスキーについては時代による作風の変化のあまりの激しさになかなかついていけないところもありましたが、そう言われてみるとそんな気がします。
勉強になりますわ。ストラヴィンスキーを聴く醍醐味が増しました。
ありがとうございます!

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