いやぁ、楽しい新年会でした。
久しぶりにチャイコフスキーを採り上げた「早わかりクラシック音楽講座」。10名の方にご参加いただき、丸3時間好き勝手に語らせていただいた。
今更ながらだが、いわゆる職業音楽家のはしりのようなチャイコフスキーの音楽はどこからどう聴いても名曲揃いで、一部の隙もない。クラシック音楽など日常の中でほとんど聴いたことがないという人たちにも受ける、あるいはどこかで聴いたことがあるという人気・・・。大作曲家にしては生前発表した作品の数は決して多いとはいえないが、そのほとんどがエネルギッシュで、「つかみどころのある」音楽なのだから大したものである。
チャイコフスキーは、当時流行の「芸術のための芸術」よりも、生きるための創作、委嘱に肯定的だったという。いわゆる著名な大作曲家のほとんどが内的衝動からの自発的創作を主とする中で、モーツァルト同様「他人からの依頼」による創作を中心にした彼は、ある意味真の天才だったのかもしれないと痛感する。どんなに通俗的な楽曲を書いたにしても、それは決して浅薄なわけではなく、それだけ人口に膾炙する普遍的な音楽を生み出せたということである。素直に拍手を送るべきだろう。
本日の講座で、ご参加いただいた皆様に最後に贈ったメッセージ。
「今を一生懸命生きる」という当たり前のこと。チャイコフスキーは結果的に最後の交響曲を初演した9日後に急逝している。この音楽を書いていた当時、まさか自分の命があと数ヶ月であろうことは予想だにしなかったであろう。人間誰しも明日のことはわからない。ましてや1週間後、1ヶ月後のことなど、生きているだろうと信じているだけで、知る由もない。近未来のことを心配して我に入るのではなく、今この瞬間をベストを尽くして生きることが大事なんだということをチャイコフスキーの音楽は教えてくれる。どの楽曲を書いたときも、彼は常に自分の最良の作だと自負した。それだけ、常に「今」に対して自信を持っていたということである。
チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
ウラディーミル・フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団
「自筆譜による世界初録音」と銘打った貴重盤。フィナーレのテンポ指定が「アダージョ・ラメントーソ」ではなく「アンダンテ・ラメントーソ」であったという衝撃的事実を実際に音にした初めての録音であったことから発売当時騒がれた音盤だ。
しかし、音楽の専門的な勉強をしていない僕など、実際に音を聴いてみていま一つ何が違うのか理解できない。テンポそのものもムラヴィンスキーの録音などに慣れているとほとんど変らないものだし、スコア上の指定では明らかな違いがあると指摘されてはいるものの、少なくともこのフェドセーエフ盤を聴く限りびっくりするほどの差異は感じられない。自筆譜による初録音と謳いながら、第1楽章展開部直前のファゴットのppppppも一般の定石どおりバスクラリネットで代用しているようだ。腑に落ちない・・・。
こんばんは。
毎度のことですが、遠方に住んでいるため、「早わかりクラシック音楽講座」に参加して勉強できなかったことが残念です。今回の「悲愴」交響曲については、お会いして、おかちゃんのご意見を直に伺いたかったことがありました。
それはこの「悲愴」という邦題が、近年各種文献などで、よく「誤訳」だと指摘されていることについてです。例えば、森田稔氏が『新チャイコフスキー考 ― 没後100年によせて』(1993年 日本放送出版協会)で述べられているように、日本語で「悲愴」と訳されているロシア語の「パテティーチェスカヤ」という単語には、ロシア語の辞書を引いても「悲愴」という意味は出てこないです。
パテティーチェスカヤ→ патетическая(pateticheskaya)を露和辞典で引くと、「熱情のこもった、熱情的、感動させる、人の心を動かす」とあります。ところが、ややこしいことに、これがフランス語訳されるとpathetique「哀れな、痛ましい、感傷[感動]的な」となり、なぜかニュアンスが異なってしまいます。つまりフランス語訳ではなくロシア語の「パテティーチェスカヤ」という原題は、本当はどちらかというと「悲愴」(pathetique)よりも「熱情」(appassionata)に近い意味の単語だったということになります。
この交響曲の標題については、初演の翌日、チャイコフスキーのところに弟のモデストが訪ねてきて、出版社に総譜を渡すに際して、「悲劇的」(трагическая トラギーチェスカヤ)というタイトルを付けることを提案したが、チャイコフスキーは難色を示し、弟が再度提案した「悲愴」(патетическая パテティーチェスカヤ)という語に対し、チャイコフスキーは「素晴らしい!モデスト!ブラーヴォ!「悲愴」(патетическая パテティーチェスカヤ)に決めよう!」といって即座に採用し総譜の表紙に書き付けた、という逸話が、いろいろなところで引用されていて有名ですが、私は大昔の高校生のころから、チャイコフスキーが何で日本語ではよく似た言葉の「悲劇的」と「悲愴」の違いに拘ったのかを疑問に感じていましたので、原語でのニュアンスの違いを知って「目から鱗」でした。
チャイコフスキーの交響曲第6番を、「悲愴」ではなく「熱情」だと思って聴くと、ポジティブかつ強靭な精神で過酷な運命と立ち向かった「英雄の生涯」的な印象が強くなるから不思議です(朝比奈先生の演奏など、この雰囲気にぴったり!)。標題による先入観とは、恐ろしいものです。
なお、ご紹介のCDについては、ご指摘の通りですね。私も昔話題に釣られて購入し、ごく普通の演奏だったので、がっかりしました。
おかちゃん
昨日は、お仕事の為、参加出来なくて、残念でした。
チャイコの悲愴は、大大大好きで、
今でも、i-podで通勤時に聴いています。
大人になってクラシックバレエを始めた私は、
チャイコを聴くと、どの曲も、バレエ曲に聞こえてしまってねーー
バレエ曲じゃない曲も、あ、この曲バレエでも使えるかも
って思ってしまう。
チャイコのバレエ曲を聴いていると、
身体の中のエネルギーがムクムク~って
沸いてきて、すっごく、良い波動に包まれる気がします。
また、チャイコの講座の機会があったら、
今度はバレエ曲もぜひ!!
今日、雑司が谷でお会いできますね。
お会いできることを楽しみにしています
>雅之様
おはようございます。
「悲愴」という標題の件、昔からいろいろと語れていますよね。
すでに下記のページはご存知かと思いますが、
http://www.kanzaki.com/music/cahier/pathetique0407
そもそもモデストの伝記そのものの信憑性が定かでないという事実もあるようですね。つまり、タイトルはモデストの提案で決定したものでなく作曲の段階からチャイコフスキー自身がフランス語で「Symphonie Pathétique」と決めていたという見解もあるようです。
確かに「熱情」という標題であったら、それはそれでまた聴き方も変って面白いですね。確かに「熱情」として聴くと、雅之さんがおっしゃるように「ポジティブかつ強靭な精神で過酷な運命と立ち向かった「英雄の生涯」的な印象」を受けますね。さすがうまい表現です。
ただ、実際のところは結局はわからないそうなので、僕は「悲愴」として聴いてみても、「熱情」として聴いてみてもどちらでもいいように思います。
しかし、このフェドセーエフ盤は僕もがっかりでした。
>ともみさん
おはようございます。
そうでしたよね、「悲愴」はともみさんのだーいすきな曲でした。ご参加いただけなくて残念です。僕も正直チャイコフスキーはそれほど熱心に聴いてきたわけではないので、この機会にざっくりと勉強しました。人間としても面白いですし、少なくとも出版されたほとんどは傑作のように思います。まさに稀代のメロディストという印象です。
いずれまたバレエ曲も採り上げますね。
その節はよろしくお願いします。
※本日、雑司が谷でお会いできることを楽しみにしています。
こんにちは。
ご教示ありがとうございました。とても勉強になりました。弟のモデストの件も、ご指摘の通りですね。
考えてみれば、「悲愴」のpathetique патетическая(pateticheskaya)も、「熱情」のappassionataも、「受難曲」のpassionも、全部語源はギリシャ語の「パトス」なんですよね。
ちなみに広辞苑で引くと、
パトス【pathos(ギリシア)】[哲](原義は「蒙る」の意)苦しみ・受難、また感情・激情などの意。エートス(性格)のように恒常的ではない代りに、一瞬のうちに何かを生み出す契機となる。⇔エートス
とありました。
正の感情も負の感情もあってこその「パトス」であり「エートス」ですよね。両方受容することが大切という、いつもおかちゃんのおっしゃることにつながりますね(笑)。
いや~、哲学だなあ!深いです。
感謝です!
>雅之様
>正の感情も負の感情もあってこその「パトス」であり「エートス」ですよね。
そうです、両方受容です。深いですねぇ(笑)。
バレエ音楽。ぜひ取り上げてください。
バレエを小さい頃習っていましたので、バレエと音楽がどのように結びついているかについて興味があります。
踊りたくなってしまう感覚にさせられるのが、舞曲といわれるものですが音楽と自分の心と体までが一体となってしまうパワフルな力のある音楽だと思うからです。舞曲の拍子にある間に合わせて呼吸をするため非常にパワフルです。
>kevalaさん
おはようございます。
バレエをやっていた人にはバレエ音楽は興味深いでしょうね。
いつか採り上げたいと思います。